神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
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2021.02.08

【古事記に書かれたウソとホント】

【古事記に書かれたウソとホント】

日本語で書かれた最古の書物は、古事記だとされています。




前半部分は神話中心の物語形式になっており、読み物としては随分面白い内容です。
しかし、明らかな作り話と思われる部分もあり、すべて事実が書かれているとは言えません。






古事記には、作り話(フィクション)の部分と事実(ノンフィクション)の部分があるようです。







今回の記事では、古事記に書かれたウソが、どんなものなのかを推理していきたいと思います。
【誰が】【何のために】【誰に対して】【どんなウソをつこうとしたのか】を、それぞれまとめました。








まず、この書物は、西暦712年に元明天皇に提出された時点で成立とされています。
どんな書物にも、編集責任者があり、一定の編集基準があります。





この西暦712年がどんな年で、誰がどんな思惑で古事記を完成させたのか。
それがわかれば、どんな嘘が、なんの目的で書かれているのか。またどんな真実が、なんの目的で省かれてしまったのか。
それらを推理することも可能だと考えられます。





編集責任者が誰かを特定するのは困難ではありません。
この時代には、絶対的な権力者がいました。
【藤原不比等】です。







【編集責任者 藤原不比等】
古事記が編纂された当時の最高権力者は、藤原不比等です。
当然、歴史書の内容を最終確認していたはずです。



藤原不比等には、政治上の自分の立場が有利になるように、記事の内容を自由に書き換える権限がありました。
逆に言えば、不比等以外が内容を脚色することは不可能でした。






【古事記の読者層】
古事記は、もともと江戸時代あたりまで、一般にはほとんどその存在を知られていませんでした。


読者層は、1千年の間、朝廷内や、その関係の深い人たちに限られていたと考えられます。


だとすると、権力の中枢内で情報が共有されれば、藤原不比等の思惑は達成されると考えて良いでしょう。 



かと言って、全くでたらめを書けば、信憑性が失われます。
ほぼ真実を公正公平に述べ、大多数の賛同を得られる内容にした上で、
ほんの少しだけのウソを混ぜれば、そのウソを真実だと読者に信じ込ませる可能性が高くなります。



では、そのウソとは、なんだったのでしょう。


古事記が成立した当時の藤原不比等の状況を整理することで、輪郭がはっきりしてきます。




【藤原不比等の立場】
乙巳の変(大化改新)において活躍したとされる、不比等の父親の鎌足は、乙巳の変の後、まだ不比等が幼い時に、政敵との争いにおいて失脚しています。



しかし不比等は、その後、自分の才能によりどんどん出世していき、
文武天皇の信頼を得て娘の宮子を入内させます。
そして、西暦701年に宮子と文武天皇との間に首皇子(おびとのみこ)が産まれます。
その時、不比等は44才。この同じ年に不比等自身も県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間に光明子が誕生します。




首皇子は後に西暦716年に光明子と結婚し、2年後には阿部内親王(のちの孝謙・称徳天皇)が生まれます。
西暦720年に藤原不比等は63才で亡くなります。
西暦724年に首皇子は聖武天皇として即位します。
西暦729年に不比等の子供達である武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂は政治上のライバルである長屋王を自殺に追い込み、光明子は、皇族以外での初の皇后となりました。
その後、藤原氏の繁栄は1000年にわたって続いていきます。





この間、首皇子と光明子が11才の時、712年に古事記が完成しています。





こうして藤原不比等の人生をなぞっていくと、44才以降では、明らかに以下の強い意志が感じられます。



①「孫の首皇子を天皇に即位させる」
②「娘の光明子を皇族以外での初の皇后にする」
③「首皇子と光明子の子供を天皇に即位させる」
④「自分の息子たちの子孫を今後の天皇の皇后にする」
④「障害となる政敵の活動を妨害する」





古事記が成立した時代背景を考えれば、これらの目的を後押しするために編纂されたと言えるのかもしれません。

では、具体的にどんな真実がかくされ、そしてどんなウソが混ぜられているのでしょうか。





自分が藤原不比等になったつもりでさらに深く考察したいと思います。


またそのうち続きを書きます。














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