神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
医療法人社団ありせファミリー歯科

2023.04.17

【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

医療法人社団ありせファミリー歯科ブログにようこそ。
院長の同前です。



今回は、古代史の推理です。
私の故郷である岡山に伝わる伝説、吉備津彦と温羅(うら)について考察します。




畿内の統治権を、大国主からヤマト王権が譲り受けたのは、2世紀末頃と推定されます。
畿内から出土する銅鐸が、同時期から全くみられなくなることがその根拠です。

この国譲りの実態は、出雲を中心とした日本海側勢力と、畿内を中心とした瀬戸内海太平洋勢力の、銅資源の輸入輸送ルートの主導権争いと見ることができます。


当時、日本国内では銅を産出することが不可能であり、銅鐸や銅鏡などの全ての銅製品は輸入に頼っていました。


青銅のインゴット、すなわち中国大陸で流通していた青銅製の貨幣である半両銭は、出雲で陸揚げされ、銅鐸に加工されて畿内に運ばれて、そこから日本全域に輸送されたはずです。
その銅鐸が全く作られなくなったのが、2世紀末。それと同時に日本各地からおびただしい銅鏡が出土する様になります。
(銅鏡は、ヤマト王権の象徴であるアマテラスの依代です。)





これは、銅の陸揚げされる港が、出雲から大阪湾に移り変わったことを意味し、それはすなわちヤマト王権が畿内の統治権を手に入れたことを意味します。


ヤマト王権が瀬戸内海の航路を安全に航海することが、出雲王権に対抗するためにどうしても必要でした。
そのため、おそらくは、瀬戸内海沿岸部の各港の住人に協力を求めたはずです。

その時点では、対等な取り引き、または下手に出るような態度で依頼し、協力を求めたものと予想されます。


その後、ヤマト王権は出雲を屈服させたのち、まずは出雲の直轄地だったと想定される、畿内と出雲を結ぶ山陰道の支配を確実なものにするはずです。

そして次に行うことは、出雲と同盟関係にあった地域に、服属を約束させることです。

古事記に記載のある四道将軍とは、本当に軍勢を送り込むのではなく、使者を派遣した程度の規模の可能性が高いと私は考えています。


3世紀半ばから後半にかけて、ヤマト王権から吉備に、第7代孝霊天皇の御子である【ひこいさせりひこ】が派遣されたのは、吉備勢力がヤマト王権に服属することを約束させるためのイベントだったと考えるのが自然です。



すでに吉備を統治していた吉備津彦は、使者である「ひこいさせりひこ」に、自分は吉備津彦の名前を「ひこいさせりひこ」に譲り、その後は一切、吉備津彦の名前を使わないと約束しました。


この事実から、「吉備津彦」は名前ではなく、吉備を統治する者が名乗ることのできる「称号」だったことがわかります。
ちなみに、「吉備津彦」とは、【吉備の船着場の1番の男前(超イケメン)】という意味です。

当時の出雲では、最高位の王は「おおくにぬし」と呼ばれ、ヤマト王権では、「おおきみ」と呼ばれていたようです。
また、筑紫地方では、「くまそたける」という称号が受け継がれていたことが歴史書に残されています。
吉備地方では、「きびのぬし」「きびのきみ」「きびのたける」という呼称が使われなかったのは、それぞれの地域によって個性があるからだと思われます。

とにかく、岡山では、自分たちの王を、「吉備津彦」
すなわち、「吉備の船着場の1番の超イケメン」と呼び習わしていました。



吉備津彦とは、吉備を治める王の称号であり、代々受け継がれた名前であったはずです。そして、「ひこいさせりひこ」に退治されたとされる【温羅(うら)】は、もともと最後の代の吉備津彦だったと考えるのが、最も自然です。
そして、吉備が自分たちの王である【吉備津彦】の名前をヤマト王権に譲ることで、吉備がヤマト王権の従属国になることを承諾したとみなされたはずです。
この交渉は、吉備側が、事実上の最後の吉備の王である吉備津彦【温羅(うら)】、ヤマト王権側はヤマト王の御子である「ひこいさせりひこ」が、ヤマト王の全権代理として吉備に派遣されて行われなくてはなりませんでした。





吉備津神社では、温羅(うら)は、百済または新羅の王族だったことを伝承しています。
温羅(うら)の娘が「ひこいさせりひこ」の妻になったという説もあります。
また、戦国時代の岡山の有力武将の宇喜多氏は、始祖を百済か新羅の王族だと自称しています。
これは、暗に自分たちが温羅(うら)の正式な後継者と主張したものと推定されます。


岡山県人が1千年以上もの長い間、吉備津神社に祀り、大切にしてきたのは、最後に名前を譲られた「ひこいさせりひこ」なのでしょうか。
それとも、温羅(うら)まで続いた、旧統治者たちである歴代の吉備津彦なのでしょうか。



この吉備津彦事件の後は、吉備はヤマト王権の【同盟国】から、【服属国】に格下げされました。自分たちの王を意味する「吉備津彦」の称号を、ヤマト王権の大王(おおきみ)の息子に与えたことが、そのことを証明しています。
そして、さらに時代がさがると吉備は備前、備中、備後の3国に分割されます。


吉備津彦事件から100年以上のち、仁徳天皇が吉備を訪問します。
岡山県人たちは、仁徳天皇の家系の「ひこいさせりひこ」を称賛し、吉備津彦を祀る大神殿を、当時の最新、最高技術で建築するという援助を得ることに成功しました。

さらに、ひこいさせりひこの物語に関わる県内の別の72箇所にも、それぞれ関連施設を建築する援助も得ました。






それが今に残る吉備津神社とその末社です。
当然、“表向き"の祭神は、ひこいさせりひこです。






【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

さて、まだ残る謎が存在します。

①「ひこいさせりひこ」は、吉備津神社の近くの茶臼山古墳に埋葬されたと伝承されているが、吉備津神社は何を目的に建造されたのか。



②なぜ、鯉や鳥に変身して戦うという、明らかに嘘とわかる物語が今に伝わるのか。



③「ひこいさせりひこ」は、なぜ【温羅「うら」】の死体を犬に食べさせたと言い伝えが残っているのか。



④なぜ、72箇所もの場所に吉備津神社の末社が存在するのか。




④造山古墳は、だれが何のために築造したのか。





⑤楯築遺跡は、誰が何のために築造したのか。



⑥「ひこいさせりひこ」は、なぜ陸路で吉備を目指したのか。


⑦「ひこいさせりひこ」と【温羅「うら」】の最終決戦は、なぜ一騎討ちだったのか。

⑧仁徳天皇の吉備訪問の本当の目的は何だったのか。



⑨鬼ノ城は、本当に【温羅「うら」】の居城だったのか。

さらに推理を進めます。   









①「ひこいさせりひこ」は、吉備津神社の近くの茶臼山古墳に埋葬されたと伝承されていますが、それなら、吉備津神社は何を目的に建造されたのでしょうか。



全ての言い伝えにこめられた思惑を一切排除して、ただ真実だけを観察すれば、答えは簡単に出てしまいます。
吉備津神社は、温羅(うら)の首を埋葬するための施設です。「鳴釜神事」によって、温羅(うら)の霊魂を慰めて、鎮めるための儀式を行うために吉備津神社は造営されました。

温羅(うら)から吉備津彦の名前を譲られた「ひこいさせりひこ」の埋葬されたとされる中山茶臼山古墳ではなくて、【温羅(うら)】の首が埋められたとされる場所に、吉備津神社は建設されています。

表向きの名目は、「ひこいさせりひこ」の業績を讃えるための施設と言いながら、事実上は【温羅(うら)】の霊魂を慰めるために造営され、運営されています。





②なぜ、鯉や鳥に変身して戦うという、現実にはありえないような、明らかに嘘とわかる物語が今に伝わるのでしょう。

【この物語は全てが(真実)ではない。
やむを得ず嘘をつく必要があった。】
そうした隠されたメッセージが、後世の人に向けて込められていると思います。
それは、吉備津彦伝承そのものの真贋を、後世の人に判断を仰ぐためだと私は考えます。

ヤマト王権に屈服するしかなかった当時の吉備の人たちが、本当の事を言うことは出来なかったでしょう。
だからこそ、嘘をつくなら、誰もがウソと分かるような大ウソをつくことにしたのだと考えられます。

後の世の人たち、まさに、このブログの読者さまたちが、吉備津彦伝説には、嘘の中に真実が隠されている事を見抜く未来を期待して、壮大な嘘の物語を言い伝えることにしたのだと思います。

現実的に、現在のウェブ検索でも、あまりな荒唐無稽な物語のために、吉備津彦が実在しない人物とする説を唱える人さえ見られます。

何もかも全てが嘘ではなく、真実の中に嘘を混ぜなくてなならない理由があったはずです。推理の本質とは、誰がが何かの理由で本当のことを言うことが出来ずに、やむを得ず嘘をついているときに、その真実を明らかにすることです。
そして、何が真実で、何が嘘なのかは、私たちが推理によって、答えを出さなくてはなりません。





③「ひこいさせりひこ」は、なぜ【温羅「うら」】の死体を犬に食べさせたと言い伝えが残っているのか。

これがもし真実だとしても、英雄にはありえない残虐な行為です。編集段階で意図的にカットされるべき逸話です。

しかし、岡山県民、太古では吉備人たちに、「ひこいさせりひこ」に対して無意識下に、嫌悪感を抱かせるエピソードとして、大変、効果的な役割を果たしています。


当時の人たちが、表だって批判が許されない「ひこいさせりひこ」に対して、精一杯の抵抗が、このエピソード部分に表れているように、私は感じます。結果的に岡山県人が「ひこいさせりひこ」に親近感を抱くことができないように、緻密な計算がなされています。




④なぜ、72箇所もの場所に吉備津神社の末社が存在するのでしょう。普通に考えれば、あまりにも多すぎます。

この答えは簡単です。
仁徳天皇が、吉備津彦を讃えるための神社を造営すると約束したのに乗じて、「じゃあ、あれもこれも」と、どんどん追加して、ストップがかかるまで増やし続けた結果でしょう。


私の故郷の町に残る言い伝えでは、「ひこいさせりひこ」が、吉備に滞在中、町に居着いた不審者を追い払った場所と、その日に宿泊したとされる場所に造営された神社が2社、今に残されています。この2社とも、吉備津神社の72の末社とされています。


せっかく、政府の補助金が下りると決まっているのだから、予算を上限いっぱい使わなければ損、そういった思考が働いたものと理解できます。
こうした仕組みは、古墳時代も現代もきっと同じでしょう。



④造山古墳は、だれが何のために築造したのでしょう。

造山古墳は、建造当時は日本最大の前方後円墳でした。
仁徳天皇の吉備来訪に備えて、吉備の威信を示そうと作られたものだと、考えられています。

しかし、当時の状況を考えれば、ヤマト王権の象徴は、「鏡」と「前方後円墳」です。
また、現代の考古学では、この2つを持って、ヤマト王権の支配地域と判断されています。
ということは、前方後円墳を作っている時点で、吉備はヤマト王権の属国である事をみずからの態度で明らかにしており、敵対したり張り合ったりしているはずがありません。



また、吉備の当時の時代の人たちが本当に欲しかったのは、巨大な古墳よりも、巨大な最新の建築物だったはずです。



ヤマト王権のもつ、銅の安定供給、そして最新の建築技術は、吉備の人たちにとっては、どうしても必要でした。




交渉によってヤマト王権からできる限りの援助を引き出すために、吉備の人たちは、まずは自分たちをそれなりに大きく見せる必要があります。
吉備には、鉄資源と鉄器という長所があります。
それを活かして、山を切り開き、巨大な古墳を作る技術を、ヤマト王権側に示そうと考えたはずです。


現代に例えると、住宅メーカーがモデルハウスを作ったようなもので、吉備勢力は、ヤマト王権に巨大前方後円墳の築造技術を売り込むために、造山古墳を作り、そしてそれが成功して、畿内に応神天皇陵、仁徳天皇陵が、吉備勢力の援助によって完成したと、私は予想しています。

応神天皇陵や、仁徳天皇陵は、広い平野が広がる場所で、遠くからでも良く目立つようにに作られています。
それに対して、造山古墳は見通しの悪い丘陵地に、あまり目立つことなく、ひっそりと存在しています。

しかも、自分たちでは、「つくりやま」と名付けて、平地に山をつくったかと思わせるような印象を感じますが、実際にはもともとあった山を削って作られた古墳です。



仁徳天皇の吉備来訪時にも、造山古墳を吉備の人たちは、繰り返し「つくりやま」と呼ぶことで、山を削って作ったことを隠して、まるで平地から山を作ったかのような印象操作を、ヤマト側の使者団に与えようとしたのでは無いかと、私は予想しています。

ちなみに、関西地方では、古墳を「つか」、その中でも大王(おおきみ)の古墳を「みささぎ」と呼びます。「つくりやま」とは、吉備での独特の呼び方のようです。






吉備の住民に見せるためではなく、ヤマト王権側の人たちに、吉備の鉄器と古墳建造技術を売り込むためのモデルハウスとしての役割のために、造山古墳は作られ、そしてその目的は十分に果たされたものと思われます。

吉備勢力は、畿内の巨大古墳建造の競争入札に成功した、というのが、私の予想です。


その見返りとして、吉備津神社社殿の建築及び、72末社の建築をヤマト王権に行わせたのでしょう。
そして、それらの神社たちが、今に伝えられています。





⑤楯築遺跡は、誰が何のために築造したのでしょう。
楯築遺跡とは、まだ日本中に銅鐸が普及していた2世紀後半の弥生時代末期に築造された、当時最大級と言われる規模の墳丘墓です。

吉備の勢力を一つにまとめた初代の王、おそらく、初代の吉備津彦の墓だと私は予想しています。
そして、その建造技術を、当時の権力者である出雲の大国主に売り込もうとした目的もあったはずです。


自慢したら何が起きるか。
「俺にもくれ」
「自分だけずるい」
それは、いつの時代も同じです。 
この時代では、出雲王権が、日本国内に流通する青銅製品の貿易ルートを掌握していました。
初代吉備津彦は、出雲地方に墳丘墓を作る援助をすることで、青銅製品を見返りに求めたものと私は予想しています。
(楯築遺跡の副葬品は鉄製品ばかりで、青銅製品は見られないそうです。)
その逆に、当時の吉備の特産品である特殊器台という巨大な土器が、出雲の墳丘墓から出土しています。吉備の墳丘墓の築造技術者たちが、吉備製の鉄器を携えて、出雲の墳丘墓の建設を指導したのだろうと、私は推測しています。



ちなみに、楯築遺跡、造山古墳、吉備津神社、茶臼山古墳は全てがかなり近い距離に集中して存在しています。




⑥「ひこいさせりひこ」は、なぜ陸路で吉備を目指したのでしょう。
船の方が、明らかに早くて楽に旅ができたはずです。もしも、本当に敵対する国同士の戦争であれば、陸路から、いきなり国境を超えて、そのまま首都までらくらくたどり着けるはずがありません。

これは、初めから、ヤマト王権側と、ウラ(その時点での吉備津彦)の話し合いが決着していた証拠だと考えられます。

実際に、「ひこいさせりひこ」が吉備の国境を越えて、吉備中心部に入るまでに大きな戦闘が行われたという伝承は残されていません。
(吉備の国境を越える時に、「ひこいさせりひこ」が祈願した場所が、ヤマト王権側の支配地域である姫路に、今も残されています。)

これは、「ひこいさせりひこ」が、吉備の勢力圏内に入国しても、吉備勢力が一切反抗することなく受け入れた証拠と考えられます。

岡山最大の河川である旭川を超えたあたりから西側の地域に、「ひこいさせりひこ」と【温羅「うら」】の戦いの場所としての言い伝えが多く残されています。

これは、仁徳天皇時代に、ヤマト王権の援助で神社を建築する際に、急いで整備された挿話の可能性が高いと予想されます。



⑦「ひこいさせりひこ」と【温羅「うら」】の最終決戦は、なぜ一騎討ちだったのでしょう。

それは、架空の物語だったから、というのが私の結論です。
国同士の戦争が、大将同士の一騎討ちで決まることなどありえません。

おそらく、最後の代の吉備津彦である【温羅「うら」】は、ヤマト王権側の使者である「ひこいさせりひこ」の来訪が決まった時点で選びだされて任命された、敗戦処理係だったと想定されます。


平時のリーダーではなく、敗戦時の交渉役としてのリーダーは、その国の中でも、1番有能な、真の実力をもつ人間が、必ず選ばれます。

おそらく【温羅「うら」】は、誰からも好かれ、人望もあり、頭も良くて、人間的な魅力にあふれる人だったはずです。
正真正銘の「吉備の船着場で、(見た目はわかりませんが)心は1番の超イケメン」だったはずです。




そして、ヤマト王権の属国になるとしても、少しでも良い条件で吉備が支配されるように交渉することを任されたはずです。



当然、和やかな雰囲気の中、吉備津彦の名前の放棄が行われて、その後は酒宴となったでしょう。

そして、温羅「うら」と「ひこいさせりひこ」は、こんな会話を取り交わしたのでしょう。

【温羅「うら」】
『もしも、わたしが鯉になって、足守川ににげたら、「ひこいさせりひこ」さまは鵜に変身して、ペロリと一飲みされるでしょうなあ。
何をしても、私らぁは、かないませんわぁ。』



本当に温羅(うら)が鯉に変身したと考えるよりも、ウラのそんな冗談が、口伝えで今に言い伝えられたと考える方が自然です。





岡山県北部では、弥生時代の大虐殺の言い伝えが残されています。岡山の北端部にそびえる大山を挟んだ、その向こう側では、その言い伝え通りの悲惨な状態で発掘された、青谷上寺地遺跡が最近になり見つかっています。

【温羅(うら)】の使命とは、青谷上寺地遺跡の悲劇を吉備で起こさないこと。
自分1人の命を投げ出してでも、吉備の住民の命をまもることだったはずです。

だからこそ、戦いは集団と集団ではなく、たとえ冗談であったとしても、温羅(うら)以外の誰一人として血を流すことなどあってはいけない。
それは、「ひこいさせりひこ」を迎える【温羅(うら)】の決死の覚悟だったはずです。




⑧仁徳天皇の吉備訪問の本当の目的は何だったのでしょうか。
ある女性に会いたくて来訪したと伝承されていますが、そんな理由のために、天皇がわざわざ都を留守にするとは考えにくいです。



吉備津彦事件の時ですら、天皇ではなくて、その御子の「ひこいさせりひこ」が派遣されました。仁徳天皇が自分から支配地域に出向くということは、異例なことだという印象を受けます。


その当時のヤマト王権にとっては、吉備が必要不可欠なパートナーとしての利用価値があると政治的な判断を下した結果だと考えられます。
現実には、
⑴吉備の古墳建造技術のプレゼンテーションを受ける
⑵畿内に巨大古墳造営を吉備側に発注する場合、その契約の証として、吉備から1人の姫を妃とする
⑶吉備に支払う対価をどれくらいにするかを決定する



この3点が真の目的であったと想像されます。
また、仁徳天皇は、偉大な父である応神天皇の跡を継いだラッキーボーイでは決してありません。
数多い異母兄弟の中で、熾烈な後継者争いに勝利した、大変優秀な人物だったはずです。

最終決定は、ヤマトに持ち帰ることなく、その場で即決で行われたはずです。






⑨鬼ノ城という謎の遺跡が、岡山県には存在します。一説には、温羅(うら)の居城とも伝えられていますが、発掘調査の結果、7世紀後半の時代のものと明らかになっています。
ヤマト王権と唐新羅の対外戦争である白村江の戦いが663年です。鬼ノ城は、ヤマト軍の退却後に、唐新羅連合軍の侵攻に備えて、急いで作られたものだと考えられており、私も同意見です。鬼ノ城と温羅(うら)は無関係です。








【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

【温羅(うら)】は1人で悪者になる事をどう思っていたのでしょう。
鬼とは、想像上の生き物ですが、その一方で、鬼ごっこやかくれんぼでみんなを追いかけたり、さがしたりする役目のことを、私たちは「おに」と読んでいます。

温羅(うら)は、空想上の鬼ではなく、かくれんぼなどの【おに】のような
みんなが嫌がる役を、永遠にひとりで引き受けてくれている存在です。


それは、吉備とヤマトが戦争を起こすことなく、誰一人として命を失うことなく、みんなが永遠に仲良くし続けられるように、願いを込めて、「おに」の役を演じてくれているのではないでしょうか。






【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

わいのことを、みんなでめちゃくちゃに悪うゆうてくれえよぉ。
あいつぁ鬼じゃぁ、でえれぇ悪(ワリ)いやつじゃぁ。
そう言うてくれとりゃあ、あちらさんも、みんなのことを悪ぅはせんじゃろう。
わいがこの世をいぬるときは、いぬるだけにいぬに食わせてくれりゃあええけん。
そんぐれぇしときゃあ、たぶん大丈夫じゃ思うで。
わいがおらんけぇ言うてさみしいやこぅ言よぉっちゃあおえんで。


    







そんなことを考えながら、温羅(うら)はこの世を去ったのかも知れません。そして吉備の人たちは、その後も、1000年以上も忘れることなく、温羅(うら)のことを鬼だとののしりながら、吉備津神社では鳴釜神事で【 温羅(うら)の御霊をなぐさめます。










【吉備津彦と温羅(うら)の伝説を推理する】

(写真は造山古墳に設置されているモニュメントで、被葬者をイメージした像です。)






仁徳天皇の時代には、日本には、まだ文字は普及していませんでした。
そのため、【うら】が漢字で【温羅】と表記されるのは、ずっと後の世になってからのことです。

「温」という漢字を「う」と読む例はかなり珍しいことです。
岡山県人はうらの名前を決して読み間違えることはありません。私たちが子供のころ、字の読めないときから、すでに「うら」の物語を聞いているからです。しかし、他県の人が【温羅(うら)】を話題にするときには、「おんら」と読み違える例が多いようです。かなり無理な当て字ですから、これは仕方ないことかもしれません。




漢字を選定したのは、当然、吉備の人たちだと思われます。「ウラ」を表記する際に、なぜ「温羅」という漢字が選ばれたのでしょう。



漢字は聖徳太子による仏教の布教とともに、日本全国に広まりました。
その時代に、吉備の人たちが、「ウラ」に自分たちで選んだ好きな漢字を当てて、それを現代まで踏襲しています。
それが【温羅】です。



漢字の意味を改めてみてみましょう。
〖温〗 (溫) オン(ヲン)・あたたか・あたたかい・あたたまる・あたためる ウン・ぬくい・ぬくまる
1. 
ほどよくあたたかい。 「温暖・温室・温泉・温度・温気(うんき)」







2. 
つめたさ・あたたかさの度合。温度。 「気温・水温・体温・検温・低温・常温・適温・平温・保温」







3. 
おだやか。心がやさしい。 「温厚・温良・温順・温和・温顔・温情」







4. 
復習する。さらう。 「温故・温習」







5. 
大切にする。 「温存」


らせつ
【羅刹】
仏教
の用語。
人を惑わし、また食うという魔物。悪魔。夜叉(やしゃ)と共に毘沙門天(びしゃもんてん)の眷属(けんぞく)とされる。




こうして見てみると、【温羅】の漢字に込められた、当時の人たちの気持ちが想像できます。
丁度、漢字が伝わったころ、吉備には蘇我馬子が吉備に来訪して、児島半島をヤマトの直轄地にさせたとされています。
そうした状況下での吉備の人たちの気持ちが、【温羅】の漢字選定に幾分、影響していたのかも知れません。







もしも、温羅(うら)が、このブログを見たら、何を思うでしょう。
「何を余計なことをしょおんならぁ。
ちゃんとワイのことをおにじゅあ言うて、悪者扱いしてくれにゃあおえんで。
ちゃんと、いつまでもヤマトと吉備は平和で仲良うしてくれぇよぉ。」


そんな風に思うかもしれません。





温羅(うら)は、吉備の人たちが自分を永遠に鬼だとののしること、そして吉備とヤマトが永遠に友好な関係を続けていくことを願い続けているはずです。




そして私たちが、世界の平和が続いていくための努力を続けていくことこそが、温羅(うら)への恩返しになると、私は考えています。








以上、吉備津彦と温羅(うら)の推理でした。




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