神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
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2024.02.26

【崇徳院②】讃岐配流の道中

【崇徳院②】讃岐配流の道中

前回の記事
【崇徳院①】百人一首「瀬を早み」新解釈
の続編です。





平安時代末の1156年、保元の乱で朝敵として捕らえられた崇徳院は、その後、讃岐国(現在の坂出市)に配流となります。






配流が決定したのは、崇徳院が捕らえられてから、わずか10日後のことでした。
京都出発から、讃岐までは11日間の船旅だったという記録が残されています。





保元の乱で崇徳院の挙兵に応じた瀬尾兼康の領地は、瀬戸内海をはさんで、讃岐国の対岸にあります。

【崇徳院②】讃岐配流の道中

もしかすると、最後の温情として、崇徳院は本州最後の日を、瀬尾兼康の領地である瀬尾(現在の岡山県岡山市南区妹尾)で過ごしたかもしれません。

ちなみに、保元の乱で崇徳院に味方したことによる処罰として、瀬尾兼康は、「瀬尾(せのお)」の苗字を名乗ることを後白河天皇から禁じられました。そのため、兼康は、自分の姓の漢字表記を「妹尾(せのお)」と変えます。
それ以降は、妹尾兼康と名乗り、また領地である瀬尾は妹尾と表記されるようになったと、今に伝えられています。






【崇徳院②】讃岐配流の道中

妹尾に、現在も伝えられている「詠み人知らず」の和歌があります。
「読み人知らず」とは、事情があって作者の名前を公表できない。しかし優れた和歌を後世に残すための表現です。






「煙立つ春辺の里は古の
難波の御代の気色こそすれ」
✴︎✴︎
庶民の生活がとどこおりなく送られている。その証として、家々から食事の準備をするかまどの煙が上がっている。
この春辺の里は、名君と名高い仁徳天皇の御代である難波の宮に都があった、いにしえの時代を思い浮かばせるようだ。
✴︎✴︎

妹尾の中心に位置する春辺山をモチーフにした、庶民の幸せと平和を尊ぶ和歌です。
それと同時に、妹尾を統治する領主の善政を、仁徳天皇の治世に遜色ないほどだと称賛する和歌でもあります。

歴史上、妹尾の人たちに、名君と言い伝えられているのは、「妹尾兼康」ただ1人です。
妹尾に用水を整備して、庶民の暮らしを向上させた領主として、妹尾兼康は現在でも妹尾の人たちから敬われています。
この和歌は、妹尾を統治する妹尾兼康を、仁徳天皇になぞらえて、その治世を称える最上級の賛辞を示した和歌でもあると考えられます。
そして作者は、この和歌を妹尾兼康に贈ったはずです。

また、「難波」姓は、妹尾に多い苗字でもあります。作者が妹尾に滞在した際に、交流した人物の1人に、難波氏がいたのかも知れません。







さらに、短歌に詳しい人なら、次の和歌と非常によくにていると、感じたはずです。
【難波津に咲くやこの花 冬籠もり 今を春べと 咲くやこの花】

【崇徳院②】讃岐配流の道中

百人一首で初めに詠まれる和歌であり、和歌を教わる人が最初に覚える、最も有名な和歌のひとつです。











「煙立つ春辺の里は古の
難波の御代の気色こそすれ」


読み人知らずとされており、妹尾兼康の治世を称賛する和歌であることから、作者の候補としては、崇徳院が有力と考えられます。
もしも、この和歌が崇徳院の作品だとしたならば、いつ崇徳院が妹尾に立ち寄ることができたのでしょうか。






その可能性があるのは、讃岐への配流の道中しか考えられません。

崇徳院は妹尾兼康とは異母兄弟であり、少年時代には平清盛を介して交流があり、また保元の乱では自分の味方として戦いました。
その妹尾兼康の所領である妹尾は、都から讃岐への海路の道中にあります。
崇徳院が、ぜひ一目みてみたいと、強く願ったことは、想像にかたくありません。

都から讃岐の航路に、本当に11日も要したとも考えにくいです。
和歌をたしなみ、和歌を愛した崇徳院であれば、和歌の名所である須磨にも立ち寄りたいと願ったはずです。 
実際の天候の関係もありますが、好天待ちとの名目で、配流の責任者が須磨や妹尾で1〜2日の停泊を必要と判断する裁量は、十分にあったと考えてよいと思います。

不遇な天皇とされる崇徳院の身の上を考えると、ほんの少しだけでも、道中での休憩場所を、崇徳院の希望通りにしてあげたいと思う人は多かったのではないでしょうか。



崇徳院は、流刑地に到着する直前、妹尾で歓待されてひとときの穏やかな数日を過ごしたかもしれません。そんな崇徳院が、もてなしのお礼に、妹尾兼康と妹尾の人たちのために残した和歌なのかもしれません。






後日談として。崇徳院は配流先の讃岐で亡くなりましたが、保元の乱で対立した後白河法王により、朝敵としての罪を許されることはありませんでした。


しかし、その後に都で次々と事件が起こり、崇徳院の怨霊が原因だとウワサされるようになります。




【崇徳院②】讃岐配流の道中

激動の時代を生きた崇徳院と妹尾兼康でしたが、一方の兼康も、平家方として、源平の合戦に参加し、命を落とします。
その数年後には、源頼朝が平家を滅ぼして、鎌倉幕府を開くことになります。同じころ、崇徳院は後白河法王より罪を許されて、京都洛中の清水に慰霊を目的とした御廟が設けられました。





兼康の領地であった妹尾は、崇徳院御廟が完成してすぐに、御廟運営のための御領として寄進されたと、記録に残されています。


崇徳院の御子を出産し、配流先まで同行した「兵衛左の局(ひょうえのすけのつぼね)」という女性がいました。
兵衛左の局は、崇徳院亡きあと、京都に戻って崇徳院の菩提をとむらう日々を送っていました。
後白河法王から崇徳院の罪が許される勅令が発せられたのち、兵衛左の局は崇徳院廟に移ります。

この兵衛左の局は、時の権力者である源頼朝の親戚であったため、頼朝がその身を案じて生活の保証を計画します。その際の、頼朝から兵衛左の局への書状に、妹尾を崇徳院御廟に寄進したいとの記載が残されているそうです。





読み人知らず
「煙立つ春辺の里は古の
難波の御代の気色こそすれ」

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