神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
医療法人社団ありせファミリー歯科

2021.10.02

古事記から推理する【出雲】

古事記から推理する【出雲】

医療法人社団ありせファミリー歯科ブログにようこそ。
院長の同前です。

今回は、古事記の話題です。
いろいろと謎の多い【出雲】ですが、古事記の内容から、私なりに真実を推理してみたいと思います。

【出雲】は、現在の島根県に存在し、その支配者は、大和朝廷の祖先である天(あめ)の一族よりも以前に、およそ6代にわたって「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を統治していた家系である。

これが、古事記に書かれている最も重要な内容です。

そのほかにも、古事記には、実は見落としがちな大切な内容が多く書かれています。
今回はそれについて深く掘り下げて考えてみたいと思います。

まずは各項目を箇条書きにしてあげていきます。





①出雲人も天(あめ)の一族も、ともに日本語で会話している。

②出雲はもともと、他国(おそらくコシの国)の支配を受けていたが、外部からやってきた「スサノオ」の活躍により独立した。

③その後、スサノオの子孫たちは「オオクニヌシ」とよばれ、およそ6代にわたって出雲を統治した。

④それぞれの「オオクニヌシ」は、日本各地に何十人も妻を持ち、その子供も多かった。
その多くの妻の中に、「コシの国」の「ヌナカワ姫」がいる。

⑤最後の代の「オオクニヌシ」には、男だけで80人以上の兄弟が存在した。(女性を入れれば、単純計算で兄弟姉妹の人数はさらに倍に増えると考えられる)
その最後の代の「オオクニヌシ」が国王になる際には、兄弟間の激しい争いがあったとされている。最終的に「スサノオ」の家系の娘と結婚したことにより、最後の「オオクニヌシ」は、国王の地位を獲得したとされている。

⑥「オオクニヌシ」は天(あめ)の一族に「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の統治権を譲り、その代償として、出雲に高層建築物を建てることを要求した。
その際に、「オオクニヌシ」の息子の「コトシロヌシ」は、父親に賛同し、別の息子の「タケミナカタ」は、母方の地元である「コシの国」に逃げている。


以上が、古事記に記載されている大まかな内容です。



では、ここから推理をはじめていきたいと思います。

古事記から推理する【出雲】

【出雲王家の始まり】
出雲は、もともと、「こしのやまたのおろち」という怪物に支配されていた事になっています。

本当に怪物が実在したとは信じられませんが、少なくとも、出雲が「コシの国」の属国だった事が暗示されていると考えて良いと思います。

「コシの国」とは、当然「越」のことで、日本海で出雲とつながっている、北陸地方から東北地方の日本海側沿岸部の地域を指すと考えられます。

その「コシの国」の南の端に位置する出雲が、反乱を起こし、独立したのが、スサノオの物語だと考えられます。



スサノオは、海からやってきたとされています。
このことから、スサノオはもともと日本語以外の言葉を使っていたのではないかと、私は想像しています。


出雲が発展した理由は、朝鮮半島や中国大陸からの海路で、人や物の交流が盛んに行われた事だと思われます。


弥生時代に盛んに見られる青銅器は、その原料は全て海外から輸入に頼っていました。
その貿易の窓口が、出雲であり、その海路や取り引きルートを開拓したのが、スサノオだったと私は推理しています。



日本からの主な輸出品は、当時の中国の王朝が珍重していた宝石である、ヒスイだと想像されます。

古事記から推理する【出雲】

古事記にも記載のある、「コシのヌナカワ姫」の国には、糸魚川(いといがわ)という、世界的にも非常に珍しい、高い品質のヒスイが産出される川があります。


このヒスイを船で中国に運び、中国で流通していた銅製の貨幣(銅銭)を日本に持ち帰っていたと想像できます。


この海外貿易を開拓したのが、スサノオであり、その遺産を相続したのが、歴代のオオクニヌシだったと考えられます。

実際に、出雲で作製された「銅鐸」が、近畿を中心に日本中で見つかっています。


この「銅鐸」は、銅銭をとかして作られて、出雲の支配地域に配られていたものと、私は推測しています。
たぶん、それは10月に、地方の首長が出雲に集まった時に行われたと想像されます。

古事記から推理する【出雲】

考古学の発掘調査によれば、紀元前2世紀から、紀元2世紀までの、およそ400年間、日本の各地域で、この銅鐸は使われていたようです。




この期間が、出雲のオオクニヌシの「葦原中国(あしはらなかつくに)」の統治時代だと思われます。




紀元3世紀になると、銅鐸は使われなくなります。
その代わりに大量に発掘されるようになるのが、【銅鏡】です。

古事記から推理する【出雲】

この時代には、古事記には、神功皇后が、朝鮮半島にわたった事が記載されています。

私の推理では、これは戦争に行ったのではなく、貿易の新しいルートを開拓するための交渉に行ったのではないかと私は予想しています。


それまで、まず出雲で陸揚げされた銅銭を、溶かして銅鐸に変えて、それを陸路で近畿地方に運搬されたと考えられます。

しかし、山口県と福岡県の間の関門海峡を通って、瀬戸内海を通れば、海路で直接、銅銭を近畿地方に輸入できます。


この、海路の開拓を行ったのが、神功皇后で、海外での貿易ルートの交渉を含めて、成功させたものと考えられます。



これにより、出雲の貿易港としての価値は低下することになり、銅鐸が消え、銅鏡が普及する要因となったと想像されます。


銅鏡は、天の岩戸で登場する大切なアイテムです。
アマテラス(太陽)を映す鏡であり、アマテラスの霊の依り代です。


神功皇后は、天(あめ)の一族であり、銅鏡の発掘される地域は、天(あめ)の一族の支配地域と考えて良いと思います。


その後、瀬戸内海の終点である大阪湾にめんする大阪平野は、神功皇后の息子の応神天皇の時代に急速に発展します。
今に残る応神天皇陵が、それを物語っています。




出雲の国譲りでは、「出雲」の支配権を譲ったわけではありません。
「出雲」が持っていた「葦原中国(あしはらなかつくに)の支配権を天(あめ)の一族に譲ったものと考えられます。

それは、大阪平野を中心とする近畿地方のことであり、およそ3世紀ころの出来事だろうと推測されます。


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