2024.01.28
「せをはやみ いわにせかかる たきがわの
われてもすえに あはむとぞ おもふ」
今回は、百人一首に選ばれている崇徳上皇の和歌の話題です。
崇徳院は、知る人ぞ知る日本三大怨霊のひとりですが、その一方で和歌を大変愛し、勅撰和歌集である「詩歌集」の勅令を出しました。
では、崇徳院の百人一首の和歌を見てみましょう。
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瀬を早み岩にせかかる滝川の
われても末にあはむとぞ思ふ
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一般的な解釈は、次のようなものです。
「川の流れが早まりながら岩にぶつかり二つに分かれて流れていく。離れ離れになっても2人の男女が、またいつか最後には再び会えますように。」
作者の崇徳院は、3歳で天皇に即位し、6歳で妻の聖子と結婚。その後、ずっと夫婦一緒に生活しました。
そのため、この和歌は崇徳院の実体験では無く、空想で創作した和歌だとされています。
しかし、崇徳院の育てられた環境や家族関係などを調べていくうちに、この和歌が全く新しい解釈ができることに気がつきました。
そして、この和歌は崇徳院の実体験から作られた和歌ではないかと、私は感じています。
崇徳院には、【瀬尾兼康(せのおかねやす)】という4才年下の異母弟がいます。崇徳院には多くの異母兄弟が存在しますが、この【瀬尾兼康】という人物は、崇徳院に仕える平忠盛に育てられ、後に平氏の武将として活躍します。この平忠盛は、平清盛の父親でもあります。そして、平清盛と瀬尾兼康は、6歳違いで、同じ屋敷で育てられたそうです。
瀬尾兼康は、崇徳院の配下である平清盛の側近として仕えていたことになります。そのため、異母兄弟であり、しかも4歳違いの瀬尾兼康と崇徳院との交流は少なからずあったはずです。
この瀬尾兼康は、19才の時に都を離れて、母方の実家にゆかりのある備中国の瀬尾(せのお。現在の妹尾)に領地を与えられて赴任します。
丁度その時期に、崇徳院が作ったとされるのが、この百人一首に選ばれた和歌です。
新しく注目するポイントは、下の4つです。
①作者の崇徳院が23歳頃、おとうとの瀬尾兼康が19歳ころに作られた和歌だということ。
②ちょうどその頃、瀬尾兼康が生まれ育った都を離れて、備中(現在の岡山県中部)の「瀬尾」に領主として赴任すること。
③「瀬尾」は、「せのお」と読みますが、「せお」と読むことも出来ること、
④和歌を好む崇徳院は、弟との別れにおいて、餞別の贈り物として和歌を作った可能性が高いということ。
では、みていきましょう。
この和歌は、「瀬尾」の別の読み方である「せを」から始まります。
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瀬を早み 岩にせかかる滝川の
われても末に 会はむとぞ思ふ
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「瀬尾を名乗り、瀬尾に旅立つ君に、この和歌を贈る。勢いよく流れ落ちる滝が、岩にぶつかって流れが二つに分かれていく。僕たちは、この滝のように別々の人生を、これから先、歩んでいかなくてはならない。
しかし、たとえ今は違う道に進むとしても、いつかまた必ず再会しよう。」
そうした解釈もまた可能になります。
離れ離れになる異母弟に、力強くエールを送り、そして再会を誓う和歌。
さわやかな、そして力強く切ない気持ちを込めた和歌に感じられます。
後日談として、
2人が別れた13年後、崇徳院が後白河天皇と対立して挙兵を諸将に呼びかけた時、瀬尾兼康はいち早く駆けつけました。
この戦いは初めから崇徳院が不利と見られており、敗色濃厚とされる崇徳院に協力する武将は十分に集まりませんでした。
瀬尾兼康の直属の上司である平清盛でさえ、必ず負けるとわかっている崇徳院の挙兵に応じることはできないと判断して、後白河天皇の味方につきました。
その状況のなかで、瀬尾兼康は上司の平清盛の方針を無視し、崇徳院のもとにいち早く駆けつけたのでした。
瀬尾兼康の心の中には、餞別に贈られた「せをはやみ」の和歌にある「末にあはむとぞ思ふ」という約束が、きっと上司よりも、自分の命よりも大切なものだという気持ちだったのでは無いかと、想像してしまいます。
そして、「瀬をはやみ」の和歌で誓い合った再会を、瀬尾兼康は命がけで果たしたことになります。
この事件は、【保元の乱】として歴史に残ります。結局は崇徳院の敗北で幕を閉じる事になり、運命は2人を再び引き離すことになりました。
そののちに、崇徳院は、讃岐の坂出に配流されます。
また、瀬尾兼康は「瀬尾(せのお)」の姓を名乗ることを、対立した後白河天皇に禁じられます。
そのため、その後は、苗字を「妹尾(せのお)」と改めて妹尾兼康と名乗ります。
この兼康は領民から大変に慕われていました。瀬尾兼康の改名後は、領民たちは自主的に地名の漢字表記を、妹尾と表記するようになりました。岡山市南区「妹尾」の地名が今に残っています。また、現代の妹尾の人たちの間でも、妹尾兼康は素晴らしい領主であったとの言い伝えが残されています。
また、全国に多く存在する苗字である「妹尾」さんは、この妹尾兼康にゆかりがあると考えられています。
崇徳院の配流先の坂出と、妹尾兼康の領地の妹尾は、今の瀬戸大橋がかかっている本州と四国の対岸どうしで、日帰りで行き来できる距離です。
もしかしたら、兼康は讃岐に配流された崇徳院に会いに行っていたかもしれません。
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【崇徳院②】讃岐配流の道中