神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
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2026.09.28

【崇徳院①】百人一首「瀬をはやみ」新解釈

【崇徳院①】百人一首「瀬をはやみ」新解釈

今回は、和歌の最高傑作の一つとされる、「せをはやみ」についての話題です。

百人一首にも収められている、崇徳上皇の作品です。


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せをはやみ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
あはむとぞ思ふ
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一般的には、百人一首によって広く知られていますが、元々は、詞花和歌集という歌集の中の、恋歌に分類されている和歌です。
「離れ離れになる恋人たちが、再会を誓い合う和歌」として、広く親しまれています。

【崇徳院①】百人一首「瀬をはやみ」新解釈

ここで、わたしは、もう一つ、別の楽しみ方を、みなさまに提案したいと思います。
「ともに少年時代を過ごした友に向けて、別れに際して再会を誓う和歌」という解釈です。



調べてみると、崇徳上皇は、3才で曽祖父である白河法皇の意向で天皇に即位しています。そして10才頃に結婚。
その後、父の鳥羽上皇の意向で22才で退位して、天皇から上皇になっています。
生まれた時から、周りの大人の思惑に翻弄され続けた運命でした。
その一方で、和歌についての非常に高い才能を発揮した人物でもありました。


「せをはやみ」の和歌が収められている和歌集「詞花和歌集」は、この崇徳上皇が、およそ25才で作成を命じ、32才前後で完成したものです。



この崇徳上皇が、ちょうど天皇を退位する頃、平清盛の家臣「瀬尾太郎兼康」と言う人物が、岡山県の地方官として16才で派遣されたとの伝承が残されています。

この、「瀬尾太郎兼康」と言う人物は、一説には、鳥羽上皇の実の息子とも言われており、崇徳上皇とは、異母兄弟と言うことになります。

また、瀬尾太郎兼康は、平清盛と同じ屋敷で育てられたという伝承も残されています。この平清盛は、崇徳上皇とは、特に関係の深い武士団と考えられています。

【崇徳院①】百人一首「瀬をはやみ」新解釈

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偶然かも知れませんが、この和歌は、「せを」から始まります。

せをはやみ
岩にせかるる
滝川の
割れても末に
あわむとぞ思ふ

22才の崇徳上皇が、16才の弟である瀬尾太郎兼康に別れの際に贈った和歌と想像して、あらためて解釈したいと思います。

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私たちは、同じ天皇の息子として生まれ、一つの滝が流れるように、一緒に少年時代を過ごしてきた。

しかし、今、滝川を勢いよく落ちる水は、今まさに岩にぶつかって、二つに分かれようとしている。
わたしは都に残り、あなたは岡山に赴く。

運命には逆らえないかも知れない。
しかし、離れ離れになっても、またいつかは再会したい。
わたしはそう思う。
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【崇徳院①】百人一首「瀬をはやみ」新解釈

そして、そのおよそ十数年後、崇徳上皇は政変に巻き込まれます。後白河天皇と対立し、軍事衝突が起きました。
後世に「保元の乱」と呼ばれる事件です。

その際に、崇徳上皇は兵を募ります。
しかし、戦う前から、崇徳上皇は敗色濃厚でした。
多くの武士団は、崇徳上皇の挙兵を無視します。
崇徳上皇の最後の頼みの綱であった平清盛さえ、挙兵には応じませんでした。

そのため、瀬尾太郎兼康は、崇徳上皇と再会することはかなわず、それどころか、敵味方に別れてしまいます。

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「割れても末にあはむとぞ思ふ」

後から歴史を振り返れば、「岩にせかるる滝川」の「岩」は、まさにこの「保元の乱」のことだと言えるでしょう。

敵味方に分かれても、いつかまた、友として会いたいと願う。

この時の2人には、もしかしたら、崇徳上皇の和歌が、強く心に浮かんでいたのかも知れません。


結局、この軍事衝突は、たった一日というごく短い期間で終結しました。

もちろん、崇徳上皇の敗北です。
崇徳上皇は、朝敵として捕らえられ、都を追放になりました。

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その後、崇徳上皇は、讃岐に流刑となります。
実は、この讃岐という場所は、瀬尾太郎兼康の領地からは、瀬戸内海を挟んで目と鼻の先に位置します。
現在で言えば、瀬戸大橋の架かっている場所に当たります。

公式な記録には残されていませんが、もしかすると.........
瀬尾太郎兼康は、非公式に、流刑となった崇徳上皇をサポートしていたのかもしれません。

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せをはやみ
岩にせかるる
滝川の
割れても末に
会わむとぞ思ふ


恋の歌として、広く親しまれている和歌でありながら、
友と再会を誓う和歌としても楽しめます。

さらには、「保元の乱」になぞらえれば、敵味方にわかれた友が、再び再会を願う和歌として、離れ離れになりながらも、内心で心に留め続けた和歌だと解釈することも可能になります。
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視点を変えたり、詳しく歴史を調べれば、また新しい発見がある。
そして楽しさも深まっていく。
まさに、和歌の最高傑作の一つと言えるでしょう。






さらに後日談として________
崇徳上皇は、讃岐に配流された際、37才でした。
その8年後、45才で、そのまま讃岐の地で亡くなります。
しかし、後白河上皇は、崇徳天皇の慰霊所を京都に作ることさえ禁止しました。

さらには、その19年後の西暦1183年、瀬尾太郎兼康は56才頃に、源平の戦いで戦死したとされています。


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そして、さらにその翌年のこと、京都で災害が多発します。

人々は、崇徳上皇の怨霊とうわさを始めます。
それだけ、多くの人にとって、崇徳上皇の処遇は、納得のいかないものだったのかもしれません。
その民衆の声は、ついに朝廷を動かしました。

崇徳上皇はついに、京都に帰ることを、朝廷から赦されます。
そして、都の保元の乱の跡地に、崇徳上皇の慰霊を目的とする御廟所が建設されました。



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そしてさらに、その翌年、西暦1185年のことです。

壇ノ浦の戦いで源氏が平氏を滅ぼします。
そのおよそ5ヶ月後のこと。
源氏の棟梁として権力を握ったばかりの源頼朝が、崇徳上皇の御廟所を運営する資金は、瀬尾太郎兼康の領地であった備中国の妹尾が負担することを決めます。

このときの実際のやりとりは、吾妻鏡という歴史書に詳しく記録が残っています。



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________ここからは、全くのわたしの想像ですが...


本来なら、源頼朝にとっては、瀬尾太郎兼康は、敵対する平家方の武将でした。

しかし、その瀬尾太郎兼康と崇徳上皇の関係を取り持とうと、源頼朝は考えたのかもしれません。

もちろん、あまりに有名な和歌の存在が背景にあり、それが2人の友情の物語だと、源頼朝はもちろん、当時の人々が考えていたから、なのかも知れません。
















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