

2026.04.11

医療法人社団ありせファミリー歯科ブログにようこそ。
院長の同前です。
今回は、日本語に関する話題です。
古代の日本人たちは、今よりずっと複雑な発音方法で会話をしていた、という説をご存知ですか?
その説は、「上代特殊仮名遣い」と言われています。
「現代とは異なる発音が、文字に書き分けられていた」ということは確実なこととされています。しかし、全ての日本人が、現代とは異なる発音をしていたかどうか、という事はまた別の問題です。
実際に、「上代特殊仮名遣い」の表記法が厳密に確認できるのは、古事記成立の西暦712年から、平安時代初期の西暦800年代初頭まで。
わずか100年程度の期間でした。
今回は、この「上代特殊仮名遣い」について、深く考察したいと思います。
①誰が、いつから「上代特殊仮名遣い」を書き分け始めたのか。
②なぜ、100年後には、「上代特殊仮名遣い」が、消えてしまうのか。
この2点に焦点を当てて、推理を進めます。
【①誰が、いつから「上代特殊仮名遣い」を書き分け始めたのか。】
日本に正式に文字文化が定着するのは、仏教の伝来が深く関係します。
推古天皇の時代。
現在の奈良県明日香村に都が置かれた飛鳥時代。蘇我氏と厩戸王の時代です。
そのころの記録は詳細に残されています。
それによると、朝廷の書記として活躍していたのは、史部(ふひとべ)という職能集団です。記録では、渡来系氏族である東漢直(やまとのあやのあたえ)と西文首(かわちのふみのおびと)とされています。
この史部が、「上代特殊仮名遣い」の策定または定着に関与した可能性は充分に考えられます。
_____
以下は、わたしの推理になります。
日本人は、無意識のうちに違う発音をしながら全く自覚していない例は、かなり多いと言えます。
例を挙げると・・・
①寒い
「さぶい」と「さむい」は、発音は異なるのに、わたしたち日本人は厳密に聞き分けていません。
②頭につく言葉で発音が変化する。
1ぽん、2ほん、3ぼん、4ほん
の「ほん」のように、わたしたちは無意識に言い換えていますが、漢字では全て「本」という同じ文字を使います。
③聞き取りやすいように言い換える
「目」を「め」や「めえ」と言う事もあります。
同じように、「めだま」「めんたま」
「おなご」「おんなのこ」
「おなじ」「おんなじ」
「あまり」「あんまり」
「あたし」「わたし」
「おおきい」「おっきい」
など、日本人や日本語の性格的に、細かいところまではっきり発音しないイメージです。聞き取りにくいからと言って、いちいち聞き返さないのが、日本語の特性だとわたしは感じます。
むしろ、ハキハキ発音して、細かいところまで文字に書き分けるのは、中国大陸の文化に近い性格を感じます。
とくに、日本語文字文化の歴史の最初期を担ったと考えられるのは、史部です。
そして主な史部は、中国大陸からの渡来系氏族です。
史部が、日本人も普段から意識していなかった細かい発音の違いを、かなり正確に聞き取り、文字記録を行ったのではないか。
これが、わたしの推理です。
【②なぜ、100年後には、「上代特殊仮名遣い」が、消えてしまうのか。】
大和朝廷の実権は、蘇我氏から藤原氏に移りました。その後、仏教が全国各地に広まります。
その際に、日本中に文字文化が広まったことで、「上代特殊仮名遣い」は、厳密に守られなくなり、消滅していきます。
この100年の間に急速に日本語が変化したという説が、現代の国語学では有力視されているようです。
_______
以下は、わたしの推理になります。
本来なら、文字が普及することで、それまでに存在した「上代特殊仮名遣い」が固定され、保存されるのが、自然なはずです。
しかし、実際には、逆で、文字の全国的な普及と共に、「上代特殊仮名遣い」は、消滅します。
これは、文字記録が、都の史部たちの専任業務から、全国各地にシェアされるようになったのが理由ではないか、とわたしは推理します。
日本人にとっては、無意識の発音の違いレベルだったため、全国各地の人々にとっては、正確な区別がつかなかった。
それが真相ではないでしょうか。
以上が、わたしの推理になります。
_______
よく似た例に、戦国時代のイエズス会の宣教師の話があります。
バテレンと呼ばれた宣教師たちは、日本語をローマ字で表記します。
その際にも、日本人には自覚のない発音の違いを、ローマ字で書き分けています。
せ → xe(シェに近い)
ひ → f
し → xi
などの当時の表記例が残されています。
しかし、現代の日本人はこの違いを無視して、
せ→se
ひ→hi
し→shi
のように表記しています。
________
古代日本語において、文字文化黎明期に、漢字文化圏からの渡来系書記が、「上代特殊仮名遣い」の書き分けに関与していた可能性は高いと言えます。
しかし、文字文化が大衆化するにつれて、「上代特殊仮名遣い」は、失われていきます。
これらを総合して考えると、当時の全ての日本人が、意識して発音を使い分けていた、というわけではないと思われます。
むしろ、現代に生きるわたしたちと同じように、古代の日本人も、普段から「上代特殊仮名遣い」の明確な使い分けをしていたわけではなかったのだと、わたしは推理しています。
日本人は、世界的に見れば、かなり抑揚の少ない話し方をする特徴があるようです。
親しい人同士では、あまり聞き取れないくらいの小さな声でも、意思の疎通は可能です。
むしろ、言葉を少なくしても、聞き取りにくくても気にしないのが、日本語の特徴だと思います。
実際に、学校の古文の授業で教わりましたが、「今日(きょう)」を【けふ】と書いたり、「ちょうちょ」を【てふてふ】と書いたり、昔の日本人はしていたそうです。
しかも、この習慣は、平安時代から太平洋戦争まで1200年続いています。
平安時代よりも古い奈良時代や飛鳥時代には、「上代特殊仮名遣い」という、非常に厳密な発音の違いの書き分けが、確かに存在していました。この奈良時代や飛鳥時代において、文字記録は渡来系氏族が史部として担っていました。
しかし、発音の正確性には、あまりこだわらない日本人にとって、上代特殊仮名遣いが、むしろわずらわしいルールに感じられたのかも知れません。実際に、平安時代には日本人によって、ひらがなという独自の文字が発明されましたが、上代特殊仮名遣いのような、母音の細かい書き分けは行われなくなっています。
上代特殊仮名遣いは、奈良時代から平安時代への100年間だけ、厳格に守られたルールでした。
その後は、徐々に消えていきます。
もしも、この上代特殊仮名遣いのルールが、日本人全体の話し言葉のルールであったとすれば、西暦700年から西暦800年の100年間で、母音が8種類から5種類に減少したことになります。
比較する例として、昭和元年から、令和7年が、ちょうど100年間です。
おそらく、私たちが生きている過去100年間は、日本語の歴史でも非常に変化の大きい時代です。
この100年間でさえ、母音が増減することはありませんでした。
そこから逆算すると、奈良時代に日本語の母音が3つも消えることには、不自然さを感じてしまいます。
ちなみに、上代特殊仮名遣いが消えた平安時代に実権を持ったのは、藤原氏一族です。
その始祖は、藤原不比等とされています。
藤原不比等(ふじわら ふひと)
不比等(ふひと)とは、並ぶものがいないほど優れた人物という意味に解釈できます。
さらには、史部(ふひとべ)の史(ふひと)も意味する言葉でもあります。
渡来系氏族が史部(ふひとべ)を専任していた時代が終わり、藤原不比等の子孫たちが平安時代の文化を牽引するのと同時に、上代特殊仮名遣いは、消えていきます。
この平安時代に花開いた文化は、国風文化と呼ばれており、日本独自の文学や芸術が発展した時代だと考えられています。
また、藤原氏は平安時代に多くの文学作品を生み出しました。それらは、古典文学として現代にも伝えられていますが、上代特殊仮名遣いの痕跡は見られません。
このことを視野に含めると、上代特殊仮名遣いは、渡来系氏族の間だけで厳格に守られたルールだったのかも知れません。そして、当時の日本人たちにとっては、指摘されても理解できないほどの、微細な違いだった可能性は十分に考えられるでしょう。
現在の日本語の母音は、「あ、い、う、え、お」の5種類ですが、中国語では、より多くの母音系パターンが区別されます。
そのため、漢字文化圏から来た渡来系書記たちには、日本人自身が強く意識していなかった日本語の微細な音の差が、比較的はっきり聞き分けられた可能性があります。
もしそうであれば、上代特殊仮名遣いは、日本列島の人々が無意識に使い分けていた発音を、渡来系書記たちが、高精度に聞き取って記録した差異だったのかもしれません。
以上が、わたしの個人的な見解をまとめたものになります。
しかし、また一方で、実際に古代の日本人たちは、意識的に明確な区別を持って、上代特殊仮名遣いを話わけていたとする意見は存在します。
その最も大きな根拠として、つぎの事例が挙げられます。
万葉集の中の、長歌や防人歌における「乙類」と学術用語で分類される母音の集中的な使用頻度が見られることです。
それについても、さらに考察を加えます。
___________
万葉仮名における「乙類」同士の相性(母音調和的傾向)
万葉集などの長歌や防人歌において、特定の語や音には「乙類」が含まれることが非常に多い傾向があります。例えば、「乙類」を持つ言葉同士が近くに配置される際、単なる偶然では説明がつかないほどの高い確率で、音が重複したり、特定の響き(韻)を形成したりしています。
これに関しても、防人は東国の人が多かったということを考えると、「乙類」は東国なまりの発音に近かった可能性が考えられます。
現代でも東北方言や九州方言に独特のアクセントや母音があるように、当時の東国人が独自の「母音体系(乙類に近い響き)」を持っていたとしても全く不思議ではありません。
『万葉集』の巻二十には、防人たちの歌が多く収められていますが、ここでの「仮名の使い分け」は、巻一〜巻十六の洗練された中央歌人たちの歌と比較すると、かなり「ゆらぎ(不安定さ)」が見られます。
「中央の筆記者が、東国の発音をどう写したか」を考慮した場合、この理由を説明することが可能になります。
中央から来た書記官が、東国防人の「独特のなまり(もしかすると、乙類的な発音)」を聞いたとき、自分の知っている「標準的な仮名遣いルール」に当てはめて記録せざるを得なかったはずです。「無理やり当てはめ」による混乱が起きている可能性は排除できません。
実際には「甲類でも乙類でもない、東国特有の音」だったものを、書記が「これは甲類かな?いや乙類か?」と迷いながら書き取ったために、防人歌に表記の揺れが生じている、という解釈も成り立ちます。
ここまで読み進めていただいた読者さまには、また新たな疑問が生じていても、不思議ではありません。
それは、なぜ一介の歯科医師が、ここまで上代特殊仮名遣いに関する解釈にこだわっているのか、という謎です。
わたし自身は、普段は歯科医師として勤務していますが、その傍らライフワークとして、日本語の起源を推理してきました。
令和8年2月には、独自に行なった研究成果の出版もしています。
その際に、やはり障壁となるのが、この「上代特殊仮名遣い」なのです。
奈良時代に、日本語の母音が8つから5つに減少したという変化があったのであれば、私たちの使う日本語と、飛鳥時代より昔の日本人が使った日本語は、全く別物になってしまいます。
しかし、私たちの話し方には、それほどの変化があったわけではなく、ただ表記法が変化しただけなら、大昔の日本人も現代の日本人も、話し言葉にはそこまでの差が存在しないことになります。
日本語の起源推理を、わたし自身がさらに深めるためには、「上代特殊仮名遣い」の消滅が、【表記上の変化の問題】か、実際の【話し言葉の変化の問題】かは、非常に重要な問題になります。
そのために、これほどまでに、わたしは「上代特殊仮名遣い」について、考察を繰り返しました。そして、わたしなりに、出した答えが、渡来系氏族のオーバースペックが生み出した、高精度の表記法だったというものです。
奈良時代には、日本人たちには、話し言葉において特段大きな変化は無く、ただ記録する母体が渡来系書記からネイティブ日本人に変化した結果に起きた変化だと、現時点では、わたしは結論づけています。
最後に、「上代特殊仮名遣い」という概念的用語だけでは、問題の本質をイメージするのが難しいかと思います。
ここで、もっとわかりやすい具体的な例を挙げたいと思います。
【「お父さん」と言う単語の例】
「お父さん」を読んでみましょう。
正しい読み方は、次のうち、どれだと思いますか?
①オトウサン
②オトオサン
③オトーサン
ちなみに、この3つの選択肢は、すべて「母音」の発音に違いがあります。
はい、答えは・・・・・
どれも間違いではありません。
少なくとも、誰かが①②③のどれかの読み方をしたからと言って、私たちは、即座に訂正することはありません。
「上代特殊仮名遣い」とは、この3つの違いをすべて厳密に区別して、表記法を書き分けると言うシステムだったと言えます。
そして、それを担っていたのは、渡来系書記の史部でした。
ネイティブの日本人が文字記録を担い始めた途端に、「上代特殊仮名遣い」は、消滅しています。
わたしたち日本人にとって、「オトーサン」も「オトウサン」も「オトオサン」も、全部同じで良いんじゃないでしょうか?
そして、その感覚は、平安時代の日本人たちも、もしかしたら奈良時代や飛鳥時代、もっと昔の弥生時代や縄文時代の日本人たちも同意してくれるのではないでしょうか。
日本語の歴史においては、長らく書き言葉の「文語」と、話し言葉の「口語」には、大きな隔たりが存在しました。
それは、「上代特殊仮名遣い」が消滅した平安時代から、明治時代までの1200年間続きました。
明治時代の言文一致運動によって、やっと書き言葉と話し言葉に歩み寄りが見られるようになりました。
しかし、これは文法レベルにとどまっており、発音レベルではまだまだ完全に書き言葉と話し言葉が一致しているとは言えません。
しかし、日本語文字文化の黎明期の100年間のみにおいては、かなり高いレベルで言文一致が実装されていたと言えるのかも知れません。
それが、上代特殊仮名遣いであるといえるのでは、ないでしょうか。
そして、当時の文字記録を担った書記たちの書き分けの運用の精密さには、現代日本人たちが、未だに到達しきれていない、とも言えるのかも知れません。
最後に、おまけとして付け加えます。
「上代特殊仮名遣い」がクローズアップされる場面の一つとして、日本超古代文字説の問題にも触れておきます。
古代日本には、漢字以前に「神代文字」という日本独自の古代文字が存在していたという説があり、昭和初期には話題になったこともありました。
そして、その説を否定する根拠として、この「上代特殊仮名遣い」が持ち出される例もよく見られます。
たしかに、「上代特殊仮名遣い」の消滅を、話し言葉そのものの変化ではなく、書き言葉だけの変化と考えた場合、日本には超古代文字が存在した可能性を想像する人が現れるかもしれません。
しかし私は、この問題は「上代特殊仮名遣い」を持ち出すまでもなく、慎重に見るべきだと思います。
というのも、高度な文章文化が成立し、それが継続的に運用されるためには、文字そのものだけでなく、記録し、保存し、継承するための技術や仕組みが必要だからです。
たとえば、文章を残すための紙や筆や墨などの道具、さらに記録物を保管し継承する建物などの設備が必要になります。
紙以前の時代であれば、世界には粘土板や石刻などの例もありますが、そのような媒体は、それほど多くの文字数の文字記録を残すことは難しいと言えます。
有名なロゼッタストーンでさえ、文庫本サイズの本にすれば1〜2ページ分のボリュームです。神代文字で残されているテキストの分量を考えると、筆記用具が無くては成立は極めて困難だと言えます。
また、日本列島においては、飛鳥時代以前に独自文字が社会的に運用されていたことを示す確実な痕跡が、今のところ見つかっていません。
もし超古代文字が実際に広く使われていたのであれば、それに対応する記録媒体や遺物が、もう少し明確に残っていてもよいはずです。
そうした痕跡が確認されない以上、「上代特殊仮名遣い」を持ち出すまでもなく、日本の超古代文字の存在が疑いの目で見られるのは仕方のないことだと思います。
さらに、超古代文字で書かれたとされる文章の内容を見ると、明らかにインド文明の五大元素の思想に基づいているように見えるものがあります。
この点を考慮すると、それらは日本の超古代に属するものというより、少なくともインド思想、すなわち仏教伝来以後の影響の下で成立したものと考える方が自然でしょう。
このように考えると、日本超古代文字の問題は、「上代特殊仮名遣い」を根拠に持ち出さなくても、考古学的にも思想史的にも、後世の成立を疑う方が自然だと私は考えます。