2021.10.04
医療法人社団ありせファミリー歯科ブログにようこそ。
院長の同前です。
今回は、「卑弥呼」の正体について推理したいと思います。
初めに答えを言ってしまいますが、私の考える卑弥呼の正体。
それは、第8代孝元天皇の異母兄弟である【倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと】です。
では、さっそく解説していきます。
まず、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼についての内容を整理します。
①高齢の独身女性である。
②戦乱を鎮めるために、各国の王たちの推薦によってその地位についた。
③大きな建物に住み、1000人の女性に世話を受けていた。
④卑弥呼は人前に姿を見せることはなく、実際に卑弥呼に会えるのは、弟だけだった。
⑤西暦238年に【魏】に遣いを送った。
その際、見返りの品に「銅鏡」を求めた。
⑥隣国の狗奴国の王である「卑弥弓呼(ヒミココ)と仲が悪かった。
⑦亡くなった際に、大きなお墓が作られた。
⑧後継者として、卑弥呼の一族から「いよ」または「とよ」という少女が選ばれた。
以上が、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の紹介内容です。
まず着目したいのが、
【卑弥呼は、「鏡」を欲しがった】
ということです。
鏡は、太陽神であるアマテラスの依り代であり、アマテラスは大和朝廷の祖先神とされています。
近畿地方では、銅製品は2世紀までは銅鐸が主なものでしたが、3世紀には、銅鐸はその姿を消し、その代わりに銅鏡が普及していきます。
時代背景や、発掘調査から考えて、卑弥呼は、大和朝廷の関係者と考えて良いと思います。
次に着目したいのが、
【卑弥呼は、誰にも会わなかった】という点です。
魏志倭人伝には、【卑弥呼】を「邪馬台国」の女王と記載しているため、私たちは、無意識のうちに見落としている事実があります。
「誰にも会わなかった」のではなくて、「誰にも会えなかった」
実は、その可能性は高いと考えられます。
卑弥呼の住む建物は、武装した兵が、常に厳重に見張っていたようです。
これは、外敵から卑弥呼を守るためではなく、卑弥呼を逃がさないためだと考えることもできます。
魏志倭人伝では、「卑弥呼は弟だけと会うことができた」とされています。
1000人の女性だけのいる大きな建物に男として1人だけ出入りすることが、許されていて、
卑弥呼の言葉は、全てこの弟の口を通して皆に知らされます。
当然、この弟とされる男性は、大変な権力を有していたはずですから、当時の大王と考えて間違いないでしょう。
また、諸国の反発を和らげるために、名目上の王の地位を姉に譲って、表向きは自分は女王の補佐の立場のふりをしたものと考えられます。
政治には、「内政」「軍事」「外交」「祭祀(さいし)」などのさまざまな分野が存在します。
おそらく、卑弥呼は、「祭祀」と「外交」の役割を担当し、弟が「内政」と「軍事」を担当したものだと想像できます。
まず、卑弥呼が「外交」を担ったことについては、【魏】に使者を送っていることにより、すでに証明されています。
また、「祭祀」は、アマテラスの依り代である「銅鏡」を【魏】に求めたことからも推理できます。
ついでに言えば、この時代には、九州にすでに銅鏡を作ることのできる工房は存在していました。
それにも関わらず、魏に銅鏡を求めたのは、卑弥呼と九州勢力の関係が悪化していた事が予想されます。
次に着目するのは、卑弥呼の名前です。
【「卑弥呼」は本当の名前ではない】
古代の日本において、特に女性は、本当の名前を他人に教えることはありませんでした。
本当の名前を知っているのは両親だけで、本当の名前を教えるのは、結婚する相手のみだったと考えられています。
現代のSNSでも、簡単には本名を名乗らないのと、案外似ているかも知れません。
そのため、卑弥呼が【魏】に本名を名乗ったとは考えにくく、普段から皆に呼ばれているニックネームを名乗ったと考えるのが自然です。
諸説ありますが、「ひめみこ」「ひのみこ」のどちらかの可能性が高いと私は感じています。
日の神であるアマテラスの巫女が、「日の巫女(ひのみこ)」と名乗って、【魏】に対して、祭祀に必要な銅鏡を求めたのが、真相だと私は推理しました。
倭人が「ひのみこ」または「ひめみこ」と言ったつもりが、魏の人には、「ひンみこ」と、なまって聞こえたので、
漢字表記が「卑弥呼」となった可能性は十分に考えられます。
現在はアマテラスは伊勢神宮にまつられています。
しかし古事記によると、アマテラスはもともと天皇の寝室にまつられていました。
第10代崇神天皇の代に、アマテラスの祭祀は天皇の住居の外で行うことになり、その時に選ばれたのが、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫(とよすきいりびめ)だとされています。
この豊鍬入姫(とよすきいりびめ)は各地を放浪し、その後、第11代垂仁天皇の時代に、垂仁天皇の皇女である倭姫(やまとひめ)と役割を交代します。
その後、倭姫は伊勢に落ちつき、それが伊勢神宮の起源と考えられています。
この豊鍬入姫と倭姫も有力な卑弥呼の候補なのですが、「建物内から出られなかった」わけではないですし、238年の時点でかなりの高齢の女性である条件からは外れてしまうようです。
となると、まだアマテラスが宮中にまつられていた時代である、第9代開化天皇か、それよりも前の時代の、天皇の兄弟が、卑弥呼の有力な候補と予想されます。
そこから予想されるのが、第8代孝元天皇の異母兄弟である【倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと】です。
亡くなった際に、箸墓古墳が作られたとされる伝説が残されています。
魏志倭人伝では、卑弥呼の墓は、直径150メートル程度の円墳だとされていて
箸墓古墳は、直径150メートルの円墳プラス130メートルの方墳の前方後円墳です。
この箸墓古墳は、もともと円墳で、あとから方墳部が作られたと考える人もいるそうで、もしそうだとしたら、魏志倭人伝の記述と一致します。
また、倭迹迹日百襲姫の逸話として、神様が乗り移って神のお告げを伝えたとの伝説も古事記に残されています。
「鬼道を良くし、人心を惑わす」という魏志倭人伝の記述と一致します。
【後継者の名前が「とよ」】
魏志倭人伝には、以下のような記述があります。
卑弥呼の死後に一度男王が即位したが、再び戦乱が起こり、改めて卑弥呼の一族から「とよ」という少女が女王に即位した。
第10代崇神天皇の代に、アマテラスを天皇の寝室から外に出すことになり、その際に巫女として任命されたのが、崇神天皇の皇女である豊鍬入姫(とよすきいりひめ)です。
このことからも、
卑弥呼→倭迹迹日百襲姫
とよ→豊鍬入姫
という可能性も十分に考えることができます。
以上が、私の考える【卑弥呼】の正体でした。