神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
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2021.02.04

日本の歴史と銅製品

日本の歴史と銅製品

今回は歴史のお話をしようと思います。


出雲の大国主が、かつて日本を統治していたことは、その敵対勢力であるヤマト朝廷の歴史書に記載されていることから、真実である可能性が高いと考えて良いと思います。



日本列島内に、銅製品が流通する様になったのは、弥生時代のスタートとほぼ同時期だろうと考えられています。


日本国内で、銅が産出されるのは、和同開珎が作られる奈良時代以降ですので、それまでの銅製品の原料は、全て海外からの輸入ということになります。






海外とは、この時代では、中国大陸および朝鮮半島を意味しますので、貿易港として、最も利便性が高い場所は、出雲ということになります。
 

陸路で大阪湾までが整備されていますし、海路で北陸新潟県や九州福岡県にも便利です。
  

日本の歴史と銅製品

海外から輸入した銅製品の原料をまず出雲で陸揚げして、そこから日本中に流通させたのではないか。
そう考えるのが自然だと思います。





海外からの銅の輸入方法は、土器に入れた日本国産品を輸出し、空になった土器に銅銭を入れて日本に持ち帰る。
その後、銅銭を溶かして銅鐸などに作り変えて日本中に行き渡らせる。






輸出製品が何だったのかは、想像するしかありませんが、古事記には、大国主が越(コシ)のヌナガワ姫と結婚する話が、わざわざ書かれています。




越には、非常に品質の高いヒスイという天然石が産出される糸魚川(いといがわ)があります。




このヒスイは中国大陸では大変な価値のある宝石とされています。





弥生時代には、糸魚川のヒスイが、出雲や朝鮮半島を経由して、中国大陸に運ばれていたのかもしれません。





出雲の大国主の一族は、その立地を生かして、銅の輸入と加工販売を家業にしていたと、私は考えています。




日本の歴史と銅製品

日本語で金属を意味する単語である「カネ」が、「お金=銭」「かね=鐘」となるのは、
大多数の日本人(この場合は、日本語を使用する人)が初めて金属に出会ったときに、「銭」か「鐘」の形状をしていたことの名残だと思います。

日本の歴史と銅製品

古事記の記載には、「オオクニヌシ」の別名の一つに、「コトシロヌシ」というものが紹介されています。この「コトシロヌシ」とは、オオクニヌシ本人とも、その息子とも言われています。




大国主(オオクニヌシ)が出雲に常にいるなら、出向先の近畿支店長が、事代主(コトシロヌシ)だったのではないでしょうか。




それなら、事代主(コトシロヌシ)が大国主の代理で派遣された息子だということになり、つじつまがあいます。



「大国主(オオクニヌシ)」「事代主(コトシロヌシ)」も人名ではなく、役職名だと考えて良いと思います。






実際に、弥生時代の近畿地方の遺跡からは、出雲の銅鐸とほぼ同じデザインの銅鐸が出土しています。
   



この銅鐸は、弥生時代の主な銅製品として、出雲や近畿地方に数多く出土しますが、大和朝廷が編纂した古事記・日本書紀などの日本神話には登場しません。
ちなみに日本神話では、銅鏡が重要アイテムとされています。





ヤマト王権が銅鏡を重要視したことは、明らかですし、魏志倭人伝によれば、卑弥呼も銅鏡を欲しがりました。
卑弥呼もヤマト王権と関わりがあった可能性は高いと考えられます。







これらのことから、銅鐸が出土するのは、出雲、大国主の勢力の及ぶ範囲だと考えて良いと思います。

  



出雲の大国主はおよそ6代続いたと古事記には記されています。

その間の事績として、
①稲作を広めたこと
②銅の安定供給
③暦の普及
④海路、陸路の開発

などが、その時代背景や出土物から予想されます。




ヤマト王権と呼ばれる勢力が、自分たちの正統性を主張する目的で編纂した歴史書である「古事記」には、これらの事績を自分たちの手がらにはしませんでした。
出雲の大国主の事績であり、それをヤマト王権が継承したことを明確に記載しています。



この出雲の大国主の時代は、永遠には続きません。


有名な「出雲の国譲り」で、アマテラスに日本の統治権を譲る事になります。

この時の「日本」は、当然、現在の私たちが考える日本ではないと考えられます。
私たちが考える日本とは、およそ「日本語の通じる地域」だとの無意識の共通の認識があります。


オオクニヌシにアマテラスが国譲りを迫った地域は、近畿地方一円だと想像できます。




近畿地方において、銅鐸の出土がなくなり、銅鏡が多く見られるようになったことと深い関係があるように思われます。






なぜ出雲の国譲りが起きたのか。

【銅の輸入】を出雲が行った場合、北陸、山陰、九州は船による海路。
近畿地方は陸路となります。
または、舞鶴まで海路、その後琵琶湖を船で移動して淀川を下るルートもあります。


近畿地方の人たちにしてみれば、もしも出雲には向かわずに、初めから瀬戸内海を通って、直接大阪湾に入れば、陸路や琵琶湖経由での運搬よりも銅の輸入がずっと楽になります。



しかし、瀬戸内海は非常に複雑な潮の流れがあり、貿易船が安定した航海を行うためには、こまめに停泊して天候や潮の満ち引きを待つ必要があります。

そのためには、瀬戸内海の各地の住民の理解と協力が必要不可欠です。

日本の歴史と銅製品

もしも、関門海峡から瀬戸内海をとおり、大阪湾に入る海路が整備されれば、出雲の【銅の貿易港】としての重要性は下がることになることが想像できます。




近畿地方では、弥生時代後期より鉄器が普及し、淀川に堤防を作ることで、大阪平野の広大な湿地帯が田園に生まれ変わり、
多くの人口を養える土地に変化しました。



そして、人口が急激に増加したため、近畿地方での銅の需要がさらに高まり、時間のかかる陸路での運搬では不足が出るようになったのではないでしょうか。
また、人口の増加とともに、大阪平野の住民たちの発言力も強くなっていったものと想像できます。


それがヤマト王権の誕生と出雲の国譲りの背景になったのではないかと思います。



ヤマト王権は、各地の豪族の連合体だと考えられていますが、
瀬戸内海の【銅輸入ルート】の共同体だったのだと私は予想しています。

みんなで力を合わせる必要がなければ、誰もなかなか協力しあいません。
そして、当時の日本列島では、銅の輸入はみんなで力を合わせる必要がありました。







このヤマト王権の始祖はアマテラスとされています。


ちなみに、関東平野を土地開発して、日本一の人口の街にしたのは、徳川家康ですが、みずからを日光東照宮と名乗りました。
日光(アマテラス)&東照(アズマテラス)というネーミングは、
関西を開発したアマテラスに対して考えられたものだと想像できます。


古事記によると、ニニギノミコトが宮崎県から瀬戸内海を抜けて、近畿地方に入ったとされています。


また、神功皇后は、ヤマトから瀬戸内海を抜けて九州に到着し、またヤマトに戻りました。


瀬戸内海を安全に航海するためには、必ず現地のガイドが必要です。
ヤマト王権が瀬戸内海の現地の住民に、自分たちと手を組んだ時のメリットを訴えて、理解してもらえれば、仲間にするのはそれほど難しくないように思われます。


それまで、銅の輸入は出雲経由の陸路だったものが、瀬戸内海の各地では、銅の輸入ルートに協力することで、港町としての発展が約束されます。





こうして、瀬戸内海沿岸では、安定した銅の輸入ルートが形成され、おそらく、船の停泊所には前方後円墳が作られたと思われます。








では、出雲の国譲りがいつ頃に起こったのでしょう。

銅鐸と銅鏡の入れ替わりと同時だとすると、
弥生時代の終わり頃、古墳時代の始まりの頃だと推定されます。


天皇の代で言うと、仁徳天皇、応神天皇の時代にあたります。





古事記では、「出雲の国譲り」は神代の時代で、仁徳天皇、応神天皇は人間の時代とされていますので、時代が合わないとお考えの方もおられるでしょう。






古事記に書かれたフィクションとノンフィクションに関してはまた改めてまとめたいと思います。




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