神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
医療法人社団ありせファミリー歯科

2024.11.11

稲作について

稲作について

医療法人社団ありせファミリー歯科ブログにようこそ。院長の同前です。
今回は日本の魂ともいえる「お米」の話題です。




本格的な稲作が、日本に普及したのは、およそ2000年くらい前だと言うのが発掘調査から判明しています。全国的に普及したのは、2000年前ですが、稲作自体が日本に伝わったのは、それよりもさらに1000年くらい古い時代、今から3000年前だとされています。



実は、お米は暖かい地域が原産であり、寒い地域では育たないのが本当です。
「ササニシキ」や「コシヒカリ」のように、美味しいお米は、寒い地域である新潟県のイメージが、現代の私たちにはあります。しかし、これは第二次大戦後の品種改良の成果であり、本来は、お米は寒い地域では栽培できない植物でした。






そのため、世界的にみても、穀物の栽培状況を見ると、稲作は暖かい地域でしか行われていません。そのかわり、寒い地域では、「小麦」の栽培がさかんに行われています。
緯度の高いヨーロッパや北米では気候も寒いため、お米よりも小麦の方が多く栽培されています。




どうしても、現代的なイメージでとらえると、「中国から日本へ伝わった稲作」という言葉から、「中国」「北朝鮮」「韓国」「日本」の順番で、陸地つながりで伝播されたと考えてしまいがちです。


しかし、中国と言っても、北側を流れる黄河流域の黄河文明では、寒くて稲作はできません。黄河文明では小麦が主要な穀物です。また、北朝鮮も寒くて稲作は気候的に適しません。


中国大陸でも、南側の長江文明では、暖かい気候で、稲作に適しているようです。また、朝鮮半島でも、南端の地域では、米づくりの適した気候のようです。


稲作について

それらの事情を考えると、稲作は、
①おそらく、まだ縄文時代だった3000年前に長江下流域から、朝鮮半島南端を経由して、北九州に伝わった。
②気候が温暖な地域で、しかも水田耕作ではなく、自然に存在する湿地帯で直播きの方法で、限定された地域の特産品のようなものだった。
③千年後である、今から2000年前、鉄器が日本に持ち込まれた。その鉄器の普及に伴い、自然の地形を利用するのではなく、水田をつくり、米作りに適した土地を作ることが広まった。




以上が、稲作の日本への伝来の真実であろうと思われます。
水田耕作には「鉄器」が必要ですが、もともと水田のような地形の場所では、勝手に育ってくれます。


お米の伝来から、稲作が全国的に普及するまでに1000年かかってしまったのは、
おそらく水田を作るのに必要な「鉄器」が日本に伝わるのに、さらに1000年かかったからだと思います。


もちろん、この「鉄器」は、黄河文明から北朝鮮、そして韓国を経て日本に伝わったと考えられます。
なので、「お米」は長江文明〜朝鮮半島南端経由で日本に3000年前に伝わった。
「鉄器」と土木技術は、黄河文明〜朝鮮半島全域経由で日本に2000年前に伝わった。

さらには、複合技術として、鉄器を使った稲作が、日本から朝鮮半島や中国大陸に逆輸入されたかも知れません。



ちなみに、世界的には、古代史を考える際に、「旧石器時代」「新石器時代」
そして、その次が「青銅器時代」「鉄器時代」の順番で並べられるのが普通です。


しかし、日本史においては、日本列島に「青銅器」と「鉄器」は、ほぼ同時に持ち込まれました。それと同時に【弥生時代】が始まったと定義されます。
お米を収穫したのちは、必ず保存したり運搬したりする入れ物(米俵)が必要になります。
それを作るには、わら束を切断する道具が必要です。
流石に石器では難しいと想像できます。
収穫したお米を冬の間に保存したり、別の場所に運ぶには、米俵が必要。そしてその米俵を作るためには、必ず、金属製の刃物が必要です。



それを考えれば、やはり稲作の普及と、米が保存食として全国に広まるためには、金属器が必要でした。








おまけに、「こめ」の語源を考察したいと思います。
縄文時代までの、日本における栽培作物の代表は、「クリ」でした。
冬の間の保存の可能な食糧であり、栽培することで、生産量を人工的に調整できる食べ物として、すでに、縄文時代が始まる前には全国的に普及していました。

お米が日本に伝わったとき、当時の人が、はじめて「こめ」を見たときは「ちいさい!」というのが、いちばん妥当な感想だったでしょう。
もちろん、食べたら美味しいと思ったに違いありません。
しかし、食べる前に、必ず調理前、収穫直後の状態を見て、思ったはずです。
「小さい!」と。




そして、以前にこのブログでも触れましたが、日本語の古い形は、もしかしたら、現在の「岡山弁」に伝えられているようなものだった可能性があります。
「岡山弁」では、「ちいさい」のことを、「こめえ」「こんめえ」と言います。

もともと、中国では、「ベイ」「マイ」と呼んでいたはずなので、始めは日本にもその名前で紹介されたはずです。
その時に、初めて米をみた日本人が「こめぇなぁ」という感想を持ったことが由来となり、「コメ」という日本語が誕生したのかも知れません。

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