2025.02.21
現代において、人類は地球上のあらゆる場所で生息し、繁栄しています。
丸い地球において、さまざまな地域で、さまざまな言葉を使って生活しています。
まず初めに、数十万年前にネアンデルタール人がアフリカで誕生し、ユーラシア大陸に広まりました。
その数万年後、いまから5万年後には、現生人類が世界中に拡散して、先住のネアンデルタール人と交配したと考えられています。
世界中に暮らしている全ての人たちは、もともとは5万年前には一つの家族でした。
この家族が使っていた言葉は、日本語の起源でもあり、世界中の全ての言語の起源でもあります。
私たちが、親から子へ受け継いでいるのは、文化と呼ばれています。それは、優しい眼差しや、温かい言葉、手の温もりのように、記録には残せません。しかし、たましいや、こころとして、目に見えなくても、確かに何万年もの間、大切に育まれてきました。
人間のこころ、それは言葉が作ります。そして、こころは、言葉によって、空間と時間を超えて、誰かに伝えることができます。
その言葉とは、さまざまなものが世界中に存在しています。日本人にとっては、日本語ということになります。
日本語が、今の形になるまでには、それだけの年月を必要としたはずです。言葉は時代によって変化し、移り変わります。
私たちが、断定することが可能なのは、5万年前には、たった一つの家族が、一つの言葉を使っていたということ。そして、現代では、これだけ多くの言語が存在するという事実です。
5万年前には、一つの場所で暮らす一つの家族だったのが、私たちのご先祖さまたちは、世界中に移動していきました。
それに伴って、少しずつ言葉に差が生まれ、時間をかけて、現在のような状態に変化していったと想像されます。
現在において、私たち日本人が日本語を使っていることは、紛れも無い事実です。
また、近隣の地域では、琉球語、アイヌ語、韓国語が使われていることも、また事実です。
琉球語、アイヌ語、韓国語のうち、琉球語は日本語とかなり近い言語であり、最も近縁であることは間違いありません。
私たちは、物心がつくころには、言葉を使うことができるようになっています。誰もが経験したはずの、生まれたばかりの赤ちゃんのころ、1人で生命を維持することが不可能である時期。その時に、片時も目を離さずに世話をして、優しく話しかけてくれた人がいます。
私たちは、その瞬間を思い出すことはできません。しかし、私たちがこうして成長できたということは、わたしたちが、赤ちゃんだったころ、誰かの手によって、常に守られていたということには間違いありません。
立派に成長した身体は、誰の目にも見えて分かりやすいです。しかし、目には見えなくても、私たちの心も、周りの人から、大切に育まれたことで、成長することができました。
水分や栄養が身体を育み、そして言葉が心を育てます。育ての親と産みの親が別々のケースが、世の中には存在します。
水分と栄養を提供することだけではなく、言葉によって心を育むことによってこそ、真の親子と言えるでしょう。また、言葉で心を育んだ親子関係は、血のつながり以上に、私たちにとって大切なものだと思います。
5万年以上、親から子へと語り継がれた言葉。そして心。
その起源について、推理を深めてみたいと思います。
【遺伝子型と日本語】
2025年の時点では、世界的に見れば、言語と遺伝子型の相関関係が存在することが、確認されています。
人類が拡散して、お互いの集団での交流が途絶えた期間中に、遺伝子型の変異が起きたと考えられます。
また、それと同時に、もともと一つだった言語にも変化が生じたことも、また自然なことです。
そのために、遺伝子型の変異には、その集団の使う言語的な特徴との関係性が存在します。
言語との相関関係で、特に注目される遺伝子の変異型は、「Y染色体ハプロタイプ」です。
詳しい解説は省略しますが、数万年前の人類のご先祖さまをグループ別に分類したものです。
アルファベットで表されており、現代日本人には、以下の分布が確認されています。
①C1日本人固有10%未満
②D1チベットと近縁、40%
③C2モンゴルと共通、10%
④O1b2朝鮮東南アジアと共通、30%
⑤O2中国大陸と共通、15%
⑥O1b1インド南部東南アジア共通、数%
⑦Nヨーロッパ系統、数%
それぞれが、異なる時代に集団で日本に移住してきたということは、間違いないようです。では、どのグループがどの時代に日本に移住したのか。それは考古学的にほぼ解明されています。
【考古学的成果】
日本考古学界では、縄文時代よりも昔の時代を扱うことが、大変に難しい雰囲気があります。伝統的に日本政府と関わりの深い東京大学が、日本の旧石器時代の存在を強く否定してきた歴史があるからです。
日本考古学界において、縄文時代をさかのぼって、旧石器時代を研究することは、日本政府や東京大学に逆らうような雰囲気さえあります。
現代においても、国立遺伝子研究所では、縄文時代以前の時代に関しては、あまり積極的には言及されることはありません。
日本における、旧石器時代の研究は、私立大学である明治大学が細々と成果を積み重ねました。その結果、現代においては偉大な功績と呼べるまでに発展しましたが、あまり光のあたる場面にこれまでは恵まれてこなかったと言えます。
わたしのような、考古学会とは無縁な者だからこそ、言及できることもあると言えるのかも知れません。
ここから先は、明治大学の安蒜政雄氏の研究成果について、ご紹介していきます。
まずは、今から4万年前、朝鮮半島の南部に定住した人類集団がいました。便宜的に、【原始朝鮮人】と呼びます。
「原始朝鮮人」は、海を渡ることなく、朝鮮半島に定住しました。
その5千年後、新しい人類集団が移動してきました。南方より、海を渡って、沖縄を経由して3万5千年前に関東地方に上陸。利根川下流域、信濃川下流域、筑紫、日向に拠点を置く集団が日本に移住しました。
この集団を、便宜的に【原始日本人】と呼びます。
当時の日本海と瀬戸内海は巨大な淡水湖であり、日本各地にはナウマン象の群れが生息していました。また、日本列島は針葉樹と広葉樹が見られる温暖な気候だったと考えられています。
【原始日本人】は、つぎの特徴が判明しています。
①世界最古の磨製石斧を使用し、船を使いこなしていた。
②村をつくるときは、必ず円の形に家を配置する。
③石器の材質にはこだわりがある。少しでも品質を追求するために、わざわざ入手困難な地域の産地の石材を使用して石器を作成した。数十キロはなれた島まで、海を渡って石材を調達していた。
④石器作りの手法も、大変に工夫されていた。魚をさばいて刺身にするように、石の加工の方法も、決まった手順が厳密に守られていた。
⑤3万5千年前から2万年前までの期間、およそ1万5千年間、日本各地にまんべんなく分布し、発見される石器の状況から、全て同一の文化を共有する集団だったと考えられるくらい、全てが似通っている。
この時代の大事件として、「3万年前の姶良カルデラ噴火」があります。
九州の鹿児島湾に存在する姶良カルデラ海底火山が大噴火を起こしました。
その結果、日本列島全土に火山灰が降り注ぎました。
そのために、一時的に九州では人類の痕跡は途絶えており、九州に居住していた人たちは、本州に避難していたと考えられます。
また、海を隔てた朝鮮半島では、原始朝鮮人が、4万年前から2万年前までの期間、およそ2万年の間、スムベチルゲと呼ばれる特徴的な石器を使用しており、こちらも単一の文化を有する集団だったと考えられます。
しばらくの間、原始朝鮮人と原始日本人は海を隔てて、お互い干渉することなく、共存していました。その後、いまから2万年前に大きな変化が起こります。
☆最終氷期の最寒冷期と呼ばれる、非常に寒冷な気候になる。
☆それまで淡水湖だった日本海と瀬戸内海に海水が流れ込んで海になった。
☆ナウマン象が絶滅した。
☆朝鮮半島と九州が氷によって陸続きになった。
☆北海道とシベリアも氷によって陸続きになった。
☆北海道と九州から、それぞれ新しい人類集団が日本列島に移住した。
朝鮮半島には原始朝鮮人。日本列島には原始日本人がそれぞれ暮らしていた時代は、今から2万年前に終焉を迎えました。
そして、新しい時代が幕を開けます。
ユーラシア大陸の東の果て、日本海の大陸側に新しい人類集団が到達します。それに押し出されるように、それまでそこに住んでいた集団が、北と南から、陸続きになっていた日本列島に移住しました。
☆朝鮮半島南端から九州に渡った原始朝鮮人は、すぐに原始日本人と同化しました。
2万年を境に、それまで日本海を隔てて存在していた朝鮮半島のスムベチルゲと日本列島のナイフ型石器が融合した新しいタイプの石器が誕生し、普及しました。それは、原始朝鮮人と原始日本人が融合して一つの文化圏を作ったことを意味します。
この集団が、この後の縄文時代における主要な日本人グループとなるため、習慣的に使用されている呼称である【縄文人】と呼ぶことにします。
☆北海道から南下した集団は、細石器という独自の石器を携えていました。細石器とは、カミソリの替え刃のように、小さな刃を数多く用意して、繋ぎ合わせて使用する石器です。
この集団は、日本列島をどんどん南下していき、最終的には九州南部まで分布域を広げました。
しかし、原始日本人とは、同化することなく、独自の文化を維持し続けました。
敵対するわけでもなく、ただ別々のグループとして共存していたようです。
細石器文化を有する集団は、山間部を好んで生息しており、最終氷期の寒冷な気候の時代において、わざわざ寒冷地を選んで定住していたとも考えられます。
生息地域や独自の文化と言語を有する点を考慮すると、古代日本における、隼人や蝦夷に推定されます。また、アイヌ人とも共通の祖先を有すると推定されます。
ここでは、便宜的に【原始アイヌ人】と呼ぶことにします。
原始アイヌ人は寒い地域を選んで定住したため、暖かい気候を好んでいた縄文人とは居住地域を奪い合うこともなく、別々の文化を有しながら、共存していたのでしょう。
こうして、旧石器時代は2万年前を境に、シベリアから南下した移住民である原始アイヌ人と、原始朝鮮人と原始日本人が同化して誕生した新しい日本人である縄文人の2種類の民族が共存する時代を迎えました。
この時代に起きたと考えられる大きな変化として、「栽培栗」の誕生があります。
令和5年12月に、農研機構という研究機関より、以下の研究発表がありました。
少し長くなりますが、箇条書きにしてみます。
①日本における栗は九州に5万年前に持ち込まれた。
②2万年前に、九州から本州に広まった。
③東北、本州南部にそれぞれ適した遺伝子の適応が起きて、東北栗遺伝子、西日本栗遺伝子に分化した。
現在、日本中に自生している栗の遺伝子は、【九州栗】【西日本栗】【東北栗】の3種類に分類される。
④この、どれにも属さない第4種類目の遺伝子を持つ【栽培栗】が存在する。
⑤この第4種類目の【栽培栗】とは、現在も農家で人為的に栽培されている、人によって手入れされ、農産物として流通、消費されている栗の品種である。
⑥栽培しやすく、味も良く、日本の農産物として栽培されている栗は、実はたった一つの遺伝子型しかない。また自生している【東北栗】【西日本栗】【九州栗】のどの遺伝子型とも一致しない。
⑦そのため、明らかに人間の手により、品種改良が行われたことは間違いないとされた。
⑧その品種改良の時期は、おそらく江戸時代あたりだろうと予想される中、令和5年に農研機構を中心として、岡山理科大学などの協力により研究が行われた。
⑨研究の結果、品種改良が行われた時期は、遺伝子型の変異のパターン分析から、2万年前と特定された。
自生していた栗を、人間によって遺伝子操作したもので、その品種改良を行った場所が日本列島のどこかだということも、確実となった。
当時の日本人は、ナウマン象の絶滅により、冬の間の食糧の不足という危機に直面しました。しかし、日本人たちは栗の栽培によって対応し、生き延びることを可能にしました。
最終氷期の最寒冷期と呼ばれる時代は、およそ4千年間続いた後に、終焉を迎えます。
今から1万6000年に、最終氷期が終わり、世界中が暖かい気候に変化します。それによって、人類は食糧の入手が容易になり、人口は増加し、世界中で文明が生まれることになりました。
日本では、同時期に土器が使われるようになった事から、この時代は、土器の模様を意味する言葉である縄文時代と呼ばれているのは、みなさまもご存知の通りです。
土器の発明は、魚介類である海産物の煮沸を可能にしました。その結果、海産物を安全に食糧として利用できるようになりました。
特に貝類は、簡単に手に入りますが、生で食べるのは有害な場合があります。土器の発明により、貝類が食糧として利用可能になりました。そのため、縄文時代には貝が食糧として大量に消費されるようになった結果、その生活ゴミとして発生した貝殻の廃棄処分した場所である貝塚がら大変に多く見られるようになります。
縄文時代は、今から1万6000年前に始まり、今から3000年までの間、およそ1万3000年程度続いたと考えられています。
安蒜政雄氏の研究成果とY染色体ハプロタイプの調査結果を重ね合わせて見ましょう。
☆4万年前、初めにユーラシア大陸極東にたどり着いたのは、D1a2a系統
☆3万5千年前に、船で日本列車に上陸、定住したのが、C1a1系統
☆北海道から南下したのが、D1a2a系統とC2系統の混血集団
だという推論が導かれます。
このうち、D1a2a系統は、アイヌ語と関連
C2系統はモンゴル語と関連
現代韓国語は、O1b2に関連
と予想されるため、現代日本人の使う日本語を使っていたと予想されるのは、消去法により、C1a1系統ということになります。
現代日本人の私たちにとって、C1a1系統は全体の10%程度しかないと言えるかも知れません。
しかし、C1a1系統は、世界中にも日本人にしか認められない遺伝子型であり、日本人の特殊性(イコール日本語を使用するという特徴)を決定していると考えて良いのではないでしょうか。
また、現生人類が世界に拡散する以前には、ネアンデルタール人がユーラシア大陸に分布していました。
そして、現代日本人にも、ネアンデルタール人の遺伝子は受け継がれています。
状況から考えられるのは、ネアンデルタール人と混血したのは、最初期に移動を始めたD1a2a系統かC1a1系統のどちらか一方、または両方だと予想されます。
ネアンデルタール人由来の遺伝子を、D系統の多いアイヌ人やチベット人がどれほど有しているかを調べることができれば、C1a1系統とD1a2a系統のどちらかがより深く混血したかがわかるかも知れません。
現代日本人の使う日本語という言語は、5万年からC1a1系統によって使われ始め、その後にさまざまなな集団と合流して、同化しながら、日本列島で3万5千年間、現代まで伝わっていると、言えるのかも知れません。
それは、環状集落と呼ばれる、原始日本人の特徴である「輪(わ)」の形のムラ。
私たち日本人が最も大切にしている「和(わ)」の心。
みんなで大きな「わ」になりながら、新しい時代を作ってきたのではないでしょうか。「倭人(和人)」とは、日本人を意味する言葉でもあります。
さて、C1a1系統とは、日本人全体の10%未満ですが、どのような特徴があるのでしょう。
分析の一助になればと期待して、以下にその特徴を箇条書きにしてみます。
☆日本列島の隅々まで、満遍なく均一に分布している。
☆沖縄は13%と特に多く見られるが、それ以外にも、長崎県と岡山県だけが割合が高く10%程度となっている。
☆日本列島以外では、ほぼ確認されていない。朝鮮半島でごくわずかに確認された例は存在する。
いずれ、Y染色体ハプロタイプC1aに関しては、改めて詳しい分析を試みたいと思います。
さて、縄文時代が終わりを迎えたのが、稲作の開始および鉄器青銅器の伝来した約3000年前だと考えられています。
長江下流域で生活していたとされるO1b2が、集団で移動を開始したのが、ちょうどその時期だと考えられています。
現代人では、O1b2は日本人と韓国人の30%を占めています。また、アイヌ人には全く見られません。
3000年前に、日本列島に集団で移住し、金属器文化をもたらし、縄文人と融合、同化して、新しい日本人である「弥生人」となったと考えられます。
O1b2が単独で弥生人だったのでは無く、D1a2とC1a系統の縄文人との同化によって生まれたのが、弥生人であったと考えられます。
弥生時代は、今からおよそ3000年前から、1700年前くらいまで続きました。
その後、中国大陸において、大帝国の誕生や、戦乱の影響により、戦争難民や滅亡した国の王族の亡命などが繰り返し起きました。また、先進文化をもたらすために、多くの学者や技術者集団が、渡来人として日本を訪れました。これらに関しては、中国や日本の歴史書に詳しく記されており、この渡来人たちは、Y染色体ハプロタイプのO2を多く含んでいたと予想されます。
O2は、現代の東アジアに最も広く分布している主要グループです。
ここまでを整理すると、Y染色体ハプロタイプによる分類から、日本人を構成するグループに関しては、以下の結論が導かれます。
【旧石器時代(4万年前から2万年前)】
原始朝鮮人D1a2
原始日本人C1a1
【縄文時代(1万6000年前から3000年前)】
縄文人D1a2とC1a1
原始アイヌ人D1a2とC2
【弥生時代(3000年前から1700年)】
弥生人D1a2とC1a1とO1b2
原始アイヌ人D1a2とC2
【古墳時代以降】
日本人D1a2とC1a1とO1b2
渡来人O2、O1a、N
隼人、蝦夷D1a2とC2
【現代日本人】
D1a2、C1a1、O1b2、
O2、O1a、N、C2
ということになります。この組み合わせのうち、現代日本人だけは、実際に調べたデータの結果です。
そして、状況証拠から推理した結果、日本語の起源は、原始日本人を構成したY染色体ハプロタイプC1aの母語だったものだと予想されます。