2025.01.15
吉備国津神「さおねつひこ」
古事記に登場する吉備の国津神で、漁師の「さおねつひこ」の話題です。
神武天皇の東征を手助けして、のちに大和の初代国造に任命されたとする伝説上の人物です。
古事記によると、
①神武天皇が吉備の高島の宮に滞在していたとき、「速吸門」の「和田の浦」という場所にて
②神武天皇が船で移動中に
③亀に乗って釣りをしている男と会った。吉備国津神の漁師ウズヒコと名乗った。
④神武天皇はウズヒコに、この土地について詳しいかと尋ねたところ、ウズヒコはよく知っていると答えた。
⑤神武天皇は、竿を渡して、ウズヒコを自分の船に乗り込ませた。
と、記載されています。
その他の記録では、
⑥吉備の笹ヶ瀬川上流の足守川流域において、神武天皇がフツヌシとタケミカヅチの旗を見た場所に神社が建っている。
⑦このフツヌシとタケミカヅチとは、それぞれ鹿島神宮、香取神宮の祭神であり、神武天皇に「鉄剣」を授けた神だとされている。
⑦吉備からヤマトに向かう際に、次の拠点となる播磨よりも東への行程には、ウズヒコは最後まで神武天皇に付き従った。
⑧宇佐神宮家の伝承では、宇佐の豪族ウサツヒコは、初めは神武天皇に頑なに抵抗していたが、のちにウズヒコが説得したことにより、神武天皇に従うことを決めたとされている。
ただし、現在では、さおねつひこは吉備の国津神ではないという意見が、多くの人に受け入れられています。
その根拠として、次の3点があげられています。
❶速吸門とは、「潮の流れの早い場所」という意味だとすれば、吉備(現在の岡山県)にはおだやかな内海しか存在しないため、潮の流れが早い場所が存在しない。
だから、さおねつひこが吉備の国津神のはずがない。
という意見です。
古事記の記載にある「吉備」というのは、間違いであり、本当の場所を書き間違えているはずだと、一般的には考えられているようです。
❷神武天皇は、日向を出発地として、そこから東に向かっている。さおねつひこは、宇佐のウサツヒコを説得している。だから、神武天皇がさおねつひこにあったのは、宇佐のあたりのはずだ。吉備のはずがない。
❸神武天皇は、吉備滞在中に、道案内を頼むために、さおねつひこを仲間にした。だから、さおねつひこは、明石より東に詳しい人物のはずだ。
だから、さおねつひこは、畿内への行程に詳しい、吉備よりも東の人物のはずだ。
以上より、さおねつひこの出身地として吉備以外に、九州説と、神戸説の2つが存在します。
また、吉備においては、岡山県の岡山市東区水門町にも、さおねつひこの伝承地は存在します。
さおねつひこや神武天皇の時代からは、遥かな後世である現代において、伝承が真実かどうかを判断するのは、大変に困難です。
また、場所が「吉備」ではないだとか、「亀に乗って釣りが出来るはずがない」とか、一部が誤りだとする立場を取ったとしても、どこまでが嘘で、また真実かを判断することは、それこそ不可能です。
私は、さおねつひこの、古事記の伝承を読んでみて、書かれている全てが、実は真実を伝えているのではないかと考えています。
その理由として、まず、執筆者が嘘をつく必要性が全くないということ。
古事記の責任編集者は、当時の絶大な権力者の「藤原不比等」です。自分の始祖とされる神である「タケミカヅチ」を登場させることには意味がありますが、それ以外には、この部分に、不比等の利害が発生する内容はありません。その場合は、(いざ、真実を隠したい時のために、そのほかの部分においては)可能な限り記述の正確性に慎重になったはずです。特に、荒唐無稽に思われる内容なら、なおさら真実だからこそ、そのままを書き残したという可能性もあります。
実は、おだやかな吉備の児島湾にも、「速吸門」に比定される「潮の早い場所」が存在しました。
さらに、その場所は、かつては「ワダの浦」、現在でも「ワダ」と呼ばれており、亀に乗って釣りをすることが可能でした。また、神武天皇は、その場所を確実に通ったという証拠もあります。
今回の記事では、神武天皇がさおねつひこと出会った場所について、新しい考察をご説明したいと思います。
まず、神武天皇が東征をする決断をした時代背景について、整理します。
弥生時代の初期において、出雲の大国主は、日本で消費される青銅の原料を一手に引き受けて、朝鮮半島から輸入していました。主な輸出品は、中国の王朝で最高の宝石とされていた、越の糸魚川産の翡翠(ヒスイ)です。
越のヌナカワヒメが出雲の大国主の妻になったことで、越の糸魚川原産の良質な翡翠が、大国主の利権になっていました。
古代中国では、すでに半両銭という銅銭が通貨として流通していたため、半両銭が使える場所まで行けば、糸魚川原産の翡翠は、大量の半両銭と交換してもらえます。
その半両銭を、日本に戻って、溶かして銅鐸にして、全国に配ることで、大国主は日本の王になった。
私はそう推理しました。
また、大国主は、今も昔も人口の多い、大阪梅田や難波まで、青銅器を搬送する陸路を出雲まで整備しました。
それによって、出雲本社、大阪支社というシステムが完成します。出雲本社からは、九州、北陸。大阪からは、瀬戸内海、中部東海関東。
日本国内では、青銅を生産できないため、全ての原料は大国主が調達するシステムだったと考えられます。
しかし、中国大陸では、なぜか原因不明の銅銭の大量の消滅がおきます。弥生時代には、日本中からおびたい量の青銅器が見つかっています。この全てが中国大陸の半両銭だとしたら、中国大陸側にとっては国家的な問題となっていても、おかしくないように感じます。
さて、日本では出雲を拠点にした大国主が、畿内を統治していたと考えられます。それは、大国主の祭器と考えられる「銅鐸」が、畿内から多く見つかっているからです。
しかし、神話「国譲り」にあるように、大国主はアマテラスに国の支配権を譲りました。この国とは、畿内を意味すると考えられます。その理由として、弥生時代のある時期を境に、「銅鐸」は見られなくなり、そのかわりに「銅鏡」が非常に多く見つかるようになるからです。
「銅鏡」は、アマテラスの祭器です。
国譲りをしたと言っても、出雲から畿内への陸路である出雲街道は、大国主が整備したものです。出雲で陸上げされた青銅器は、出雲街道を通って、畿内に運ばれていたはずです。
しかし、播磨国一宮である「伊和神社」の記録によると、新羅より渡来したアメノヒボコという神が、出雲街道の終着点である宍粟市あたりに拠点を作りました。その後、出雲街道を攻め上がり、大国主と戦闘を繰り広げます。
出雲街道の出雲の近く、青谷上寺地遺跡には、たくさんの一般市民が大虐殺された状態で発掘されています。出雲に伝わる伝承や、岡山県北部に伝わる伝承にも、弥生時代に戦争で多くの方が亡くなっているという記録が残っています。
この時に、青銅器が行き渡らなくなった地域が存在しました。
瀬戸内海沿岸から九州の日向灘までで、播磨よりも西の地域です。
神武天皇の東征の物語とは、大国主とアメノヒボコの出雲街道沿いの戦闘の余波を受け、青銅器が不足したために起きたと推理されます。
それは、神武天皇が通ったルートと、味方にした地域から容易に推理できます。
日向(宮崎県)、宇佐(大分県)、筑紫(福岡県)、安芸(広島県)、吉備(岡山県)、浪速(大阪府)です。
現実的には、各拠点は瀬戸内海航路の定期便が、当時からすでに運航されていたと考えられます。
神戸の人には、なじみが深いと思われますが、三井商船の定期便「さんふらわあ」も、ほぼ全く同じ航路を通ります。
「さんふらわあの航路 商船三井のウェブサイトより」
各拠点では、おそらく初めから話はついていたのかも知れません。神武天皇が畿内に到着した際に、ヤマトを統治していたのはニギハヤヒです。ニギハヤヒとは、神武天皇の祖先のニニギの弟の家系であり、ニギハヤヒもそれを認め、神武天皇に王座を譲ります。
そのエピソードからしても、神武天皇は、偶然に東征を行ったというよりは、時代背景の求めに応じて必然的に実行された可能性が高いと思われます。大国主とアメノヒボコの出雲街道における戦争により、瀬戸内海日向灘の連合軍が、王となる血統の相応しい人物をリーダー役にスカウトして、ヤマトの支配者を交代させた。
そのような見方も可能になります。
青谷上寺地遺跡は、岡山県のすぐ北。播磨街道は、出雲と播磨を結ぶ陸路ですが、岡山県の北部、美作(みまさか)の大部分を通ります。青谷上寺地遺跡の悲劇を目の当たりにして、危機感を持ち、現状を変えようと画策したのは、吉備(岡山県)にとっては当然だと思われます。
日向、宇佐、筑紫、安芸、吉備、浪速のうち、各地域の中で最も長く滞在したのが、吉備の8年で、最も短かったのが、宇佐の一年未満です。
また、古事記の記載では、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした、と書かれています。
私の解釈では、初めから吉備には8年いて、筑紫と吉備を行き来したのが1年。安芸と吉備を行き来したのが7年と予想しています。
それだけの長い期間に実際に何をしていたのか、というと、ヤマトの支配者のニギハヤヒと戦うための準備です。
その準備とは、兵員の確保と、鉄器の確保、海上輸送ルートの確保です。
ヤマトでの軍事衝突が起きた場合、ヤマトとアメノヒボコの連合軍に、さらに東国の支援が予想されます。
総力戦を挑むよりは、いざというときに、援軍が駆けつけられる体制を作ることを、まずは考えなくてはなりません。
播磨と国境をはさんだ吉備にとっては、まず一国だけで戦えるなら、はじめからそうしたはずです。
しかし、現代のパワーバランスをみても、岡山と大阪難波とは全く相手になりません。岡山が難波を味方につけて、ヤマトと戦うには、広島県、福岡、大分、宮崎と協力体制を整える必要があります。
さらに、吉備(岡山県)には、砂鉄が豊富に出ました。鉄器の原料です。
吉備は、神武天皇の東征の同時期に、関東地方から、フツヌシとタケミカヅチの鉄器製作に長けた集団を誘致して、製鉄工場も、すでに整備していました。
最も反対していたのが、宇佐だったようです。
普通に考えれば、神武天皇は宇佐を素通りして、最も播磨に近く、協力的な吉備にまずは拠点を置き、筑紫と安芸を味方につけ、最後に宇佐を説得した可能性が高いと思われます。
筑紫に1年、安芸に7年、吉備に8年はもしかしたら真実かも知れません。しかし、吉備に8年(筑紫1年➕安芸7年)かも知れません。
そして、初めからヤマトに全軍集結するのではなく、いざとなったらどれだけの人数が、武装した状態で集まれるか、ということが、ヤマト軍に対する圧力になったはずです。
神武天皇がヤマトに宣戦布告する際には、各地域に軍勢が出陣できる状態で必要な船も準備。
必要な武器や軍装は、吉備に用意しておき、途中で各兵士に支給。
そうした準備をするために、8年が必要だったのではないかと、私は予想しました。
さて、話を「さおねつひこ」に戻します。
アメノヒボコとは北と東のそれぞれ国境を挟んで対峙していた吉備は、おそらく当時の時代に、最も現実を直視せざるを得ない立場だったはずです。
また、その代わりに、国全体を俯瞰的に見て、平和な未来を建設的に志向できた可能性も十分にあったはずです。
神武天皇の東征が、もしも行き当たりばったりの偶然の産物ではなくて、時代が求めた必然的な出来事だったとしたなら、吉備がその作戦の立案や実行には深く関わっていた可能性は高いと予想されます。
もしも、さおねつひこが吉備の人物だと仮定すると、またさおねつひこが吉備の意思を代表して行動する人物だったと仮定した場合、もう一度、その行動を整理します。
①さおねつひこは、関東地方の製鉄集団を吉備に誘致した。
②さおねつひこは、神武天皇と出会い、製鉄集団を紹介した。
③さおねつひこは、抵抗していた宇佐族の王、ウサツヒコを説得して、神武天皇に恭順させた。
④ヤマト戦で、的確な作戦を立てた。
次に、さおねつひこに関する古事記の記載内容を検証していきます。
さおねつひこは、神武天皇に「速吸門」の「ワダの浦」で神武天皇と出会います。そして神武天皇に自己紹介する際に、「吉備の国津神」であり、「亀に乗って釣り」をしていて、「自分は漁師」だとはっきり伝えています。
吉備には、児島という島があり、現在では本州と陸続きの半島ですが、江戸時代までは完全な島になっていました。
児島と本州の間は、歩けるくらいの浅い海となっており、その中央部には、船が通ることのできるように深い水路がありました。
【速吸門】
「潮の速い入り口」という意味に解釈できます。歩けるくらいの浅い海である児島湾において、潮の「流れ」が速い場所は、存在しません。
しかし、潮の「満ち引き」が速い場所は存在しました。現在の岡山市南区妹尾に該当します。浅瀬の海では、満ち潮では船が運航できても、引き潮では、水量が少なくなるため、船が立ち往生します。
妹尾には、現在でも「跡不見(あとみず)観音寺」が存在します。「跡不見(あとみず)」とは、奈良時代あたりからのこの付近の地名とされています。
船が運航するには、満ち潮の時に限られるため、停泊中の船が出航するためには、跡を振り返る暇もなく急がなくては、すぐに引き潮になってしまい、途中で船が立ち往生して動かなくなる場所、という意味だそうです。
「速吸門」を、「潮の流れが速い」という意味ではなくて、「潮の満ち引きが速い」という意味に解釈すると、まさに「跡不見(あとみず)観音寺」のある妹尾に位置すると考えることができます。
また、「跡不見(あとみず)観音寺」の数十メートル離れたところには、かつては「ワダの浦」と呼ばれた場所が存在します。
「吉備」の「速吸門」の「ワダの浦」は、全てこの地に条件が当てはまります。
さらに、この「跡不見(あとみず)観音寺」と「ワダの浦」は、笹ヶ瀬川という河川の河口に位置します。そして、笹ヶ瀬川を遡っていくと、血吸川(ちすいがわ)と、御旗神社があります。
血吸川とは、鉄分を多く含み、赤く見えるために名付けられた川で、古代から製鉄工房が栄えた場所です。
御旗神社とは、神武天皇がフツヌシとタケミカヅチの御旗を見たという伝承地です。
神武天皇がフツヌシとタケミカヅチと出会うためには、必ず跡不見観音寺と、ワダの浦を通る必要があります。
もしも、速吸門が跡不見観音寺だとすれば、サオネツヒコは、神武天皇と鉄器の神、そして鉄器工房を引き合わせたことになります。
また、フツヌシとタケミカヅチ。特にフツヌシに象徴される物部氏の製鉄集団を吉備に誘致したのも、吉備勢力だった可能性もあります。
少なくとも、神武天皇は、必ず吉備の跡不見観音寺を通過したことは間違いありません。
次に、「亀に乗って釣り」をしていた謎を解明します。御旗神社や血吸川と同じく、笹ヶ瀬川上流には、「楯築遺跡」が存在します。当時においては、日本最大の墳墓であり、前方後円墳によく似た形をしています。
画像は史跡ナビのウェブサイトからお借りしました。
また、副葬品が独特であり、青銅製品が一切無く、鉄器が豊富に残されていました。
また、秦の始皇帝が不老不死の薬と考えていた「水銀」が32キロ以上見つかっています。
楯築遺跡の被葬者は、青銅器に不自由はしていながら、鉄器は豊富に持つ人物のようです。
特に世界に類例が無いとされるのが、「線帯紋石(せんたいもんせき)」通称「亀石(かめいし)」です。
一見、亀のような形をしており、地元の人からは、昔から亀石と呼ばれていました。側面には、いく筋もの並行した流線形が描かれています。全く謎の遺物とされています。
私が推理したのは、亀石の紋様は、鉄器でなくてはつけることができないデザインだということです。
現代の私たちにとっては、ただの流線形に見えます。
しかし、当時の鉄器が珍しい時代では、亀石は、その模様を見ただけでも、石よりずっと硬い、石よりのずっと細い、針のような物体が存在することを示すものだったはずです。
神武天皇は、実際に亀石を見て、さらに模様を見て、その先には最先端の技術である鉄器工房の存在することを確信したのだと、私は想像しています。
また、その笹ヶ瀬川上陸に鉄器工房があると言う目印として、笹ヶ瀬川河口に亀石が置かれていたのでは無いでしょうか。
そして、その亀石の上で、サオネツヒコは、釣りをしていたのでしょう。
しかも、跡不見観音寺は、古代から船を係留する場所だったと考えられています。亀石が目印として設置されていた場所、そこは船着場であり、亀石は船を係留するための固定源として利用されていたかも知れません。
また、妹尾のワダの浦には、神代から漁業を営み、海上交通の安全を守っていた「和田姓」を名乗る家系が、かつて存在していたそうです。
もしかすると、サオネツヒコは古事記の記載の通りに、吉備の速吸門のワダの浦にて神武天皇と出会い、笹ヶ瀬川の上流まで案内したのかも知れません。
しかも、出会ったのが、船着場であり、鉄器工房の目印となる亀石が置かれていて、サオネツヒコはその上に乗って釣りをしていたのかも知れません。
さらには、サオネツヒコは神武天皇を案内して、笹ヶ瀬川上流の楯築遺跡の被葬者となった人物を引き合わせて、ヤマト平定のための鉄器の調達を手助けしたのかも知れません。