神戸市西区の医療法人 ありせファミリー歯科 院長ブログ
医療法人社団ありせファミリー歯科

2020.08.29

新方遺跡第13号人骨

新方遺跡第13号人骨

今から2000年以上前、日本の時代区分が、縄文時代から弥生時代に変化するとき、稲作や金属器の文化をたずさえた集団が北部九州に移住してきました。その後、稲作と金属器の文化は、日本列島全体に広がっていきました。
日本列島にもともと住んでいた縄文人が新しい文化を受け入れて弥生人になっていったのか、それとも、新しい集団が縄文人を追い出して入れ替わって弥生人になったのか、長らく謎とされてきました。

日本は土地柄、火山活動が活発なため、土壌が火山灰の影響を受けて酸性の性質を持ちます。そのため、土の中の人骨は分解されやすく、後の時代までに残りにくいと考えられています。


縄文時代には、貝塚に人が葬られた場合、貝殻のカルシウムに守られて、人骨が溶けずにきれいな状態で残ります。
そのため、日本中から発掘される縄文時代の人骨は大変多いそうです。

数千年にわたる縄文時代において、どの時代でも、どの場所でも、よく似た性質の人骨が見つかるそうです。


ところが、弥生時代になったとたん、急に人骨が発見される例が非常に少なくなります。
日本中で、貝殻と人骨を一緒に埋めるということをしなくなったためです。

そのため、弥生時代になってから、どんな体型の人が日本に住んでいたのかは、実はよくわかっておらず、想像することしかできませんでした。


例外的に、初めに稲作の伝わった北部九州では、甕棺墓や石棺という人骨の残りやすい埋葬法をとっていた時期がありました。そのため、弥生時代では、研究に耐えられる保存状態の人骨は、ほとんどが北部九州のものです。また、その人骨群は、縄文時代の日本人とは全く異なる特徴を持っています。

初めに稲作の伝わった北部九州でしか、その時代の人骨が見つからないため、長らく考古学界では、その北部九州で見つかった、縄文時代とは全く異なる特徴を持った新しい人たちが、その時代には日本中に広く分布していたと考えられたようです。

しかし、もしも弥生時代前期、北部九州以外で、できれば関西地域で稲作の行われている地域から、保存状態の良い人骨が見つかったとしたら.....

関西で稲作を行った人たちが、それまで住んでいた縄文人を追い出して入れ替わったのか、それとも北部九州に移住した集団に稲作を教えてもらって生活スタイルを変えた縄文時代から住んでいたひとたちなのか......

新方遺跡第13号人骨

長らく謎とされてきたこの問題がとうとう解決する日が来ました。

それは今からおよそ30年前、神戸市西区の「新方遺跡」から、大変保存状態の良い人骨が発見されたのです。




その時のいきさつは、新方遺跡の実際の人骨を鑑定された片山一道先生の著作に詳しく述べられています。

新方遺跡第13号人骨

結論としては、発見された人骨は縄文時代の日本人の特徴を持っていて、また抜歯の風習も見られました。

神戸市埋蔵文化財センターのリンクです↓↓↓↓↓↓↓↓
https://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/center/relics/art/details/56.html

弥生時代に、住んでいた人が入れ替わった訳ではなく、
新しい文化(稲作など)を携えた集団が北部九州に移住したことをきっかけに、
それまで住んでいた人たちが、新しい文化(稲作など)を学び、
受け入れながら生活スタイルを変化させて行ったと考えられます。


その証拠となったのが、この新方遺跡第13号人骨なのです。






以上、神戸市西区の自慢話でした。

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