2025.01.10
☆「八幡神」とはどんな神様でしょうか。
日本中に、八幡神社が存在します。全国で、およそ4万社あるとされています。
その総本宮が、大分県にある宇佐八幡神社です。
欽明天皇の時代、西暦571年に、大神比義によって、感知されたといわれる新しい神様が、【八幡神】です。大神比義によると、応神天皇(誉田別命)の霊がこの世に現れたものとされています。
この時代、日本国内では、生活必需品としての「青銅原料」の金属資源のほとんどを、朝鮮半島からの輸入に頼っていました。
しかし、朝鮮半島の国家である百済と新羅の対立が起きたため、百済と親しいヤマト朝廷と、新羅と親しい九州地方でも対立が生じます。
結果的に「磐井の乱」が起きました。西暦527年、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)が妨害し、翌528年物部麁鹿火によって鎮圧された反乱です。
鎮圧されたとはいえ、その後も、九州地方では、ヤマト朝廷への不満は逆に高まっていたと想像されます。
そうした中、ヤマト朝廷から、大分県の宇佐に派遣された「大神比義」が新しい神様の出現を感じ取り、世の中に布教を開始したのが、この【八幡神】です。また天皇家からは伊勢神宮に次ぐ皇祖神として大切にされています。
大神比義によると、「八幡神」は、応神天皇の霊魂だとされています。
前置きが長くなりましたが、今回は「八幡神」の謎について推理していきます。
【八幡神が生まれた理由】
時代背景として、九州地方の大和朝廷に対する敵対心を和らげ、協力的な雰囲気を作る必要があった。
その方法を、10代崇神天皇の御代に行われたヤマト地方を宗教的に統合することを目的とし、成功した手法について、再び実践する計画が立てられた。私はそう推理しました。
10代崇神天皇の御代に行われたヤマト地方を宗教的に統合することを目的として行われた手法について、まずは解説します。
第10代崇神天皇の御代、人心が離れたとされた際に、ヤマト地方において大和王権の前支配者であった大物主を祀ることで、政情が安定しました。
その時に、大物主を祀ることを発案したのが、ヤマトモモソ姫であり、祭祀者となったのが、大物主の7代子孫のオオタタネコでした。
今回は、27代欽明天皇の御代に、オオタタネコの子孫である大神比義が選ばれて、「磐井の乱」の50年後の九州に派遣されたのでした。
表向きは、突如として、大神比義が宇佐に出現したことになっています。しかし八幡神を発見してすぐさま天皇家の崇拝を受けていることを考えても、始めから、朝廷の密命を帯びた国家プロジェクトだったと考えるのが、自然だと思われます。
朝廷からの注文は、おそらく新しい神様を探し出してほしい。九州と大和のどちらにとっても大切に思えるような神様で、なおかつ日本人全ての心を一つにできるように。10代崇神天皇の御代の畿内の大物主の再現を、国家レベルで成功させて欲しい。
というものだったか、と私は推理しました。
その後、大神比義は、1000日間にわたって修行したのちに、「八幡神」という名前と、「応神天皇の霊魂」という新しい神様を探し出したとされます。
九州の人たちには、「物部麁鹿火」「物部氏」は許せない人物だったと予想されますので、その祖先神はできれば避けたいところです。大神比義は、そのあたりの九州人たちの心境をかなり慎重に調査したはずです。
さらには、欽明天皇の御代に力を蓄えつつあった豪族である葛城氏や蘇我氏の祖先神は、可能であれば除外しておきたいという意思は働いた可能性もあります。
また、27代欽明天皇は、母方の祖父が本来の天皇家であり、父の26代継体天皇は、16代応神天皇の男系の4代子孫であるものの、17代〜25代と繋がる男系の子孫ではありません。
すなわち、27代の欽明天皇にとっては、父方の祖先の15代応神天皇こそが、皇位継承の正統性を保障する血統となります。
となれば、欽明天皇の密命を受けたとすれば、大神比義にとっては、神様の霊魂となる人物は、「応神天皇」しかありえません。
【八幡神という名前について】
次に、「八幡神」という名前について、推理します。真の始皇帝の末裔とされる「秦氏」が、実はユダヤ人と関係があり、ユダヤ教の神様「ヤハウェ」と関係するという話を聞いたことがあります。
しかし、秦氏の出自がどうであれ、秦氏は自らの祖先神を「稲荷神」として、日本中に広まっています。しかも、稲荷神社は、八幡神社と並んで、全国的にも大変人気のある神社です。もしも万が一、一神教の神様だとしたら、稲荷神と八幡神の二つの姿が存在することは、ありえません。
秦氏と八幡神社は無関係でしょう。
さて、「八幡」とは、現在ではハチマンと呼ばれることが多いのですが、かつては「やはた」と呼ばれることの方が多かったようです。
意味は「八つの旗」という意味に感じられます。
かつて日本のことを、「大八洲(おおやしま)」と呼んでいた時代があったそうです。
その8つの島とは、古事記と日本書紀で若干の違いはありますが、それぞれ以下のようなものです。
『古事記』
淡路、伊豫之二名島、隱伎之三子島、筑紫、伊岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島など「八つの島」
『日本書紀』
淡路洲(あわじ しま)、大日本豊秋津洲(おおやまと とよあきづ しま)、伊豫二名洲(いよ ふたなの しま)、筑紫洲(つくししま)、億岐洲(おきの しま)・佐渡洲(さど しま)、越洲(こしの しま)、大洲(おおしま)、吉備子洲(きびのこ じま)。
「八幡神」という名前は、「8つ」の島(地域)が、それぞれの旗を共に掲げて一つの国として協力しあい、繁栄することを願ってつけられたのだろう。
わたしは、そう推理しました。
戦争をすることなく、平和を願い、天皇家にとっても、九州人や全ての日本人にとって、一緒に拝むことの出来る神様。その神様の声を聞くために、大神比義は宇佐に派遣されたのでしょう。
また、応神天皇の霊魂である八幡神が、天照大神に次ぐ、第二の皇祖神とされているのは、特に欽明天皇にとっては、特別な意味を持ちます。
ちなみに、有名な弓削道鏡の事件ですが、道鏡は物部氏の血筋を引いているとされ、伊勢神宮の天照大神の子孫ということになります。しかし宇佐八幡宮の応神天皇から見れば、子孫ではありません。
道鏡の天皇即位をはばむとすれば、宇佐八幡神がその役割としては、最適だったと言えるでしょう。
以上、八幡神に関する推理でした。